85年の阪神日本一はニッカンの大スクープから始まった-。昭和から平成にかけて、プロ野球、特に阪神をはじめパ・リーグ3球団を含めた在阪球団は激震続きの時代だった。当時、ニッカンの若手から中堅、そしてベテラン記者として活躍し、後に大阪・和泉市長を務めた経歴を持つ井坂善行氏(66)が、独自の人脈を駆使した取材ノートから、「スクープの舞台裏」に迫ります。第1回目は1984年(昭59)オフ、ニッカンの大スクープとなった吉田義男氏の阪神監督電撃復帰です。(肩書はすべて当時のもの)

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「近くに公衆電話はあるか。確認しておけ」。

夜討ち朝駆けの張り込みとなると、デスクに指令されるのは、まずは連絡手段の確保だった。携帯電話が普及し、必需品となった今、最前線の記者にそんな話をしたら笑われ者だろう。

しかし、当時は笑い話では済まされない重要な仕事の1つだった。

10円玉しか使えない赤い公衆電話は連絡手段としてはありがたかったが、大阪本社から離れた遠方だと、ズボンのポケットが重たくなるほど10円玉が必要だった。その後、お釣りは出ないものの、100円玉が使える黄色い公衆電話が登場。便利なものが出来たと喜ぶと、今度はテレホンカードが使える緑の公衆電話が登場する。世の中の近代化に脱帽する進化の連続だった。

84年オフの阪神監督騒動。若手の私は、よく兵庫県芦屋市にある田中オーナーの張り込みを命じられた。国道2号線から少し入った所にある閑静な住宅街。国道沿いにあるタバコ屋さんまで走らないと、公衆電話は見当たらなかった。デスクに連絡しないといけないし、かと言ってその時にオーナーが自宅を出てきたら…。この見極めが記者の腕の見せどころだが、今の記者には恥ずかしくて話せるような『逸話』ではない。

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