<大下弘こんな人>

阪神ドラフト1位佐藤輝明内野手(22)が4回に高梨から20号本塁打を放ち、新人左打者としてはプロ野球2人目の快挙を成し遂げた。

佐藤輝の前にこの大台に乗せていたのは、1リーグ時代の46年、セネタースの大下弘だった。戦後間もなくのプロ野球をけん引した、国民的なスターである。ポンポンと打球を飛ばすことから「ポンちゃん」の愛称で親しまれた。

大下は1922年(大11)12月15日生まれ、兵庫県出身。台湾・高雄商-明大を経て、45年秋に新球団セネタースと契約した。なおこの球団は46年に東急フライヤーズと名称を変え、以後「急映」「東急」「東映」「日拓」と目まぐるしくチーム名を変更。74年に「日本ハムファイターズ」と改め、04年の北海道移転を経て現在に至っている。

大下は45年12月1、2日に西宮球場で行われた東西対抗試合に、早くも出場した。同年は戦争のためプロ野球公式戦の開催が休止されており、生のプレーに飢えていたファンが球場に押し寄せた。ここで大下はホームラン賞、殊勲賞、最優秀選手を獲得。さっそうとデビューを果たした。

そして公式戦デビューの46年。いきなり20本塁打を放ち、タイトルを獲得する。戦前の本塁打王の最多が10本という時代に、新人ながら別次元の活躍を見せた。青いバットから快打を連発し「青バットの大下、赤バットの川上」と国民的な人気を博した。46、47、51年に本塁打王、47、50、51年には首位打者を獲得し、球界を代表する強打者となる。

52年には知将・三原脩監督に請われ西鉄に移籍する。54年には22本塁打で初優勝に貢献。そして56~58年には日本シリーズで西鉄はいずれも巨人と戦って3連覇を果たす。球史に大きな足跡を残した。

59年に引退後は指導者の道を歩んだ。68年には古巣東映の監督に就任。サインなし、罰金なし、門限なしという、前代未聞の「三無主義」を掲げたものの、チームは低迷し8月に休養。そのまま退任した。

74、75年には大洋(DeNA)のコーチとなり、同じ左打者の長崎慶一(後に啓二)の指導に乗り出す。細かく指図するのではなく、目の前で柔らかいバットコントロールをお手本として見せた。テークバックのコツをつかんだ長崎は、82年に首位打者を獲得する。85年には阪神に移籍し、来日3年目のバースがそのタイミングの取り方を徹底研究。同年の3冠王へとつながった。バースはいわば、大下の孫弟子ということになる。

球界から離れた後は、少年野球の指導などに没頭。名文家としても知られ、自著「大下弘日記-球道徒然草」はゴーストライターを使わず自らペンを執ったという。79年5月23日、56歳で亡くなった。【記録担当 高野勲】