大阪桐蔭に3―4で敗れた今夏の大阪大会決勝の試合後だった。興国の監督、喜多隆志(41)の携帯に、メールが届いた。

「お疲れさんでした。3年で闘う集団を育てた事に、敬意を表します」で始まる文面。末尾に「高嶋 仁」と送信者の名前があった。真っ黒に日焼けした額に汗を浮かべ、ノックバットを振るう24年前の恩師の姿が、喜多のまぶたの裏に浮かんだ。甲子園の空にわきたつ真っ白な入道雲まで、見えた気がした。(全文3670文字)

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高嶋の指導のもと、喜多は現在母校・智弁和歌山を率いる中谷仁(42)らと97年夏の甲子園で優勝。その後、慶大、ロッテを経てアマ球界に戻った。指導者としてアマ球界復帰を目指した動機は、高嶋と重なる。

「ぼくは甲子園に出て、1回だけ緊張したことがあって。それは最初のセンバツに出たときの開会式で、グラウンドの外で待っていたときでした。入場行進で場内に入ったとき、3歩、4歩くらい手と足が一緒だったんです。そんなことってまず、ないのに。それくらい心が動くというか、ここに立たないと分からない感激というか、感動というか。これは何なんだろうと思ったら、積み重ねてきたもの、努力してきたものがすべてこのグラウンドの中で自分の平常心を保てる裏付けになってるんだろうなと。その感動を、指導者として生徒たちに味わってほしいなと。そういう思いは持っていたので」

高嶋を指導者の道に向かわせたのも、海星(長崎)2年夏の甲子園大会開会式だった。足裏に伝わる芝生の感触から体中が震えるような経験をし、指導者として聖地に戻ろうと心に決めた。高校の教職を取るために日体大に進学。恩師も教え子も、甲子園に足を踏み入れたときに人生を決めた。

現役生活5年でロッテを戦力外になり、指導者を志した喜多に手を差し伸べたのは慶大の監督、後藤寿彦(68)。後藤の導きで喜多は教職免許の取得に岐阜経大に通うかたわら、スポーツ用品を扱うヒマラヤスポーツ本館野球コーナー(岐阜市)で働いた。07年、プロ野球選手の正月と言われる2月1日が、仕事始めとなった。販売や商品の修理に加え、顧客のクレームにも対応した。

「今まで頭下げたりという経験もなかったんで、社会を知るということに関してはすごくいい時間だったなと思います。ぼくは人前で話すことがすごく苦手だった。でも接客を通じて人と話す機会をヒマラヤスポーツで与えてもらったことは必然的な時間、貴重な2年間だったと思います」

寡黙なアスリートだった男が、多種多様な客の求めに応じる接客のプロに生まれ変わった。週末は少年野球教室に参加し、子どもたちを指導した。学業、仕事、指導に追われる毎日を「慶大卒」のプライドでやりきった。

「友達に教えてもらったりしながら単位を取ってちゃんと卒業したんですけど、慶応卒ってなかなか重たくて。すごいですね、頭いいですね、って見られるでしょ。そこの意地というか、プライドというか。絶対に単位は落とせないという変なプライドを持ちながら、猛勉強しました」

20代後半になって、大学受験以来という猛烈な勉学に励んだ。当時はつらかったが、今では笑って振り返ることのできる思い出だ。

教員免許を取ったあと、教育実習で2年間、朝日大へ。大学の野球部ならプロ引退後から2年で指導が可能だったことで、高校ではなく大学を実習先に選んだ。野球部でコーチになり、選手と向き合った。気になる選手がいた。熱い気持ち、高い能力を持っているのにそれを表現できず、周囲に認めてもらえない。そういう選手を埋もれさせまいと、日々声をかけた。

あんたに話して、何になる? そんな態度を取られても「粘りました。その日あかんなと思ったら、時間をおいてまた声をかける。人間観察が昔から好きで、表情を見るのがすごく好き。何かサインを出してくれる。『助けてほしいです』って。それを見つけたときに声をかけると、そのタイミングがよければこっちの意見を聞いてくれるようになります」

のちの監督・喜多につながる毎日が始まっていた。

朝日大での1年目に、高嶋から電話があった。

再出発の地となった岐阜の高校球界に恩返しをしなければ、と思いながらも、恩師に「智弁に戻ってくる気、あるのか?」と問われ、当時の理事長、藤田照清に会いに行った。藤田と高嶋の絆を知り、さまざまな話を聞いた上で理事長に「戻ってくる気はあるか?」と聞かれて「お願いします」と答えた。11年4月に教員として母校に戻り、同年5月1日には学生野球資格を回復。大学専任教員経験者としては初めての資格回復だった。野球部のコーチから副部長になり、15年夏には責任教師として恩師と甲子園に出場した。

「ほっとしました。あああ、これこれこれっていう。ノック打たせてもらって。ベンチからではあったんですけど、この風景だっていう、なんかねえ。本当に、また来たいなっていう。今でも早く行きたいです。生徒たちを連れて行きたい。連れて行きたいっていうか、生徒たちに連れて行ってもらうっていうか、そっちの方が正しいのかわからないですけど」

06年オフのロッテ退団から、9年がたっていた。

元プロの学生野球資格の回復には教員として教壇に立つことが絶対条件だった時代から、情勢は大きく変化した。今では短期間の座学を受け、適性を認められれば、元プロも高校球児を指導できるようになった。

「これは結果論だと思います。ぼくは学生として2年、教壇に立って2年の計4年をすごしてきて、結果的にはよかったなと思います。でないと、全然違う指導者になっていると思うので。短期間で資格を回復させて元プロの指導が可能になるのは、野球界にとってはすごく画期的なこと。野球界のレベルを上げるためには必要だと思います」

家族の理解や経済的な基盤がなければほぼ不可能だった以前の資格回復に比べ、プロアマの垣根が低くなったことを喜多は肯定する。

「ただぼくの場合は、あの4年間がなければ、チーム作りも変わったんじゃないかな。言ってることも違うんじゃないかな。長い目で見て、長い時間をかけて生徒たちがちょっとずつ成長するところに面白みを感じる。その感覚があるかないかってすごく大事だと思うので」

5年で終わったロッテでのプロ生活が、スタートだった。

「あの5年で終わったっていうことは、次に向かうための、人としての価値観を、謙虚な姿勢を持てた5年間。5年間で、失敗した。野球でぼくは成功できると思っていたけど、プレーヤーとして最後の5年間を挫折で終えたという感覚が逆によかったのかなと思っています」

大学に通い直し、スポーツ店で社会人としての多種多様な常識を身につけ、朝日大で教壇に立って学生と向き合った。資格回復を目指しながら、喜多は夢を育てていた。

智弁和歌山を17年3月で退職し、同年4月から興国に移った。野球部の部長を経て、18年8月に野球部監督に就任した。

「今の部員たちは貴重品を監督室に預けに来て、練習終わったら取りに来る。あいさつも全員、させるんです。そこで全員の表情を見られる。自分の高校時代を振り返れば、全員が同じ方向を向いてタッグを組んだときのエネルギーというか、力というか、それがすごく強かった。それで日本一になれたと思う。あの野球部の形が今の指導観に、間違いなく残っている。全員が勝ったときに喜ぶ、負けたときに悔しがる集団を作りたいというのがずっとあって」

興国は68年夏に全国制覇を果たした古豪だが、今は大阪桐蔭、履正社などの高いカベの突破に苦闘する。甲子園の常連だった母校・智弁和歌山とは、立場は異なる。ただ、どれほど道のりが険しくても「甲子園を目指しているからこそ、報われる部分があるとぼくは思っている」と喜多は言う。

「弱かろうが強かろうが絶対、目標はそこに設定しておかないと。途中の過程というか、じゃあ、うまくなるためにはどうしたらいいのか。大阪桐蔭を倒すにはどうしたらいいのって考える時間が、生徒が成長するのにとても大事だと思っているので。前チームの3年生は昨年の秋の準々決勝で大阪桐蔭に(1―15と)こてんぱんにやられた。でも夏は大阪の決勝で、それなりにゲームを作れた。前年の秋から夏にかけての生徒の成長、この時間の過ごし方がとてもよかったからだと思うので。体感したものを彼らが将来、大学や社会人生活で生かしてくれたらなと思うので」

前チームの取り組みの成果を、恩師・高嶋は評価し、ねぎらってくれた。監督と野球部長としての師弟コンビは短期間で終わったが、2人の関係の良好さは、大阪の決勝後に送られてきた高嶋のメールの文面が物語る。

来春センバツを目指したこの秋の戦いは大阪4回戦で終わったが、来夏の甲子園大会に向けて喜多は生徒たちの日々に目を配る。

甲子園は、鉄と石でできた器ではない。そこを目指す者たちの夢が、形になり、甲子園という名前を持ったのだ。【堀まどか】(敬称略)