智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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1958年(昭33)、“巌流島の決闘”と称された日本シリーズは、西鉄が巨人に3連敗後の4連勝で大逆転した。第7戦は中西太の右への先制3ランを口火に押し続け、巨人を長嶋茂雄のランニング本塁打だけの1点に抑えた。

3年連続の日本一。三原にとって、宿敵巨人が相手で、因縁の水原茂を退けた感慨はひとしおだった。同じ高松出身、東京6大学のスター同士でもあった2人の駆け引き合戦は、三原が劇的な勝利を収めた。

三原は2つ年上の水原との日本一決戦に「彼の存在なくしてわたしの人生は語れない」と敗軍の将をたたえた。

「昭和30年代は情報時代の入り口で、水原君は抜群の記憶力で個人の対戦データを頭の中に刻み込み、選手を手の内に入れた用兵をした。難しい当たりが代わったばかりのポジションにも飛んだ。名将とはタイミングのいい手を打つことで、次々と強力なコマを投入し、勝利を得ることだと思う」

その水原巨人を負かした勝因として、真っ先にあげたのは「ツキと運」だ。巨人を倒して2年連続日本一をつかんでいた58年の3度目の対戦は、自信がついていたこともあったが、3連敗後の雨天中止で“流れ”が変わったのは、三原の持つ勝負運でもあった。

「人が風雲に乗るときの強さは怖いぐらいだ。水原采配に付け入るスキは見当たらなかった。しかし、雨が降って、一拍おいた時間の重みがチームの集中力を呼んだ。そこに『天の時』『地の利』『人の和』が生まれたといえる」

智将三原が「人さかんなれば天に勝つ」といったシリーズは、投げまくった稲尾和久が“球聖”として輝いた。第3戦に完投負けしたが、雨天中止で中1日空いた第4戦から全試合に登板し、3完投1救援で4勝を挙げた。

今なら「酷使」といわれるだろうし、実際に「稲尾は三原に殺される」という声もあった。だが監督は「もっとも難しいのは投手起用」と認めながら、連投を強いている。

「稲尾を酷使したというが、そう言われても仕方がないような使い方をしたから、稲尾はあそこまでのし上がることができたと思っている。多少の無理があったとしても稲尾の野球人生をみた場合、決して間違ってはいないという自信がわたしにはある」

三原は肩の状態、投球回数、コンディションなどを把握した上で投手をマウンドに送り出した。ただチームが勝つために「いたわりを越えた起用はした」ともいう。“鉄腕”と称された稲尾も納得ずくだった。三原を「大恩人」とリスペクトしたのは、監督と選手が信頼関係で結ばれていたからだ。

西鉄監督最終年の59年は4位。セ・リーグの大洋から白羽の矢が立った。DeNAの前身チームは6年連続最下位のお荷物球団。魔術師の“奇跡”には続きがあった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

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