千葉・富津の実家は海から徒歩1分。父照雄さん(74)と愛船「長五郎丸」は地元で有名だった。
「毎年3、4回とかテレビに出てて。いろんな番組が来た。ジャニーズの人も乗っていきました」
父は現役のタカアシガニ漁師。オスはハサミ肢を広げると幅4メートルにも達する、巨大なカニとして知られる。
鋸南町の沖合は水深が深い。定置網にはクロムツなどの高級魚や、グロテスクな深海魚も引っ掛かった。千葉沖は幻の深海ザメ「メガマウス」も発見されている。そのため日本テレビ系「ザ ! 鉄腕 ! DASH !! 」からNHKのドキュメンタリーまで、幅広くクルーが来ていた。
小学生の頃、長五郎丸によく乗せてもらった。大きなかごや重たい網を、父と伯父はいくつも積んでは降ろしていた。きょうだいは姉が1人。伯父の息子たちも継ぐ気はなさそうだった。祖父の代から続く家業が途絶えてしまう。「じゃあ俺しかいないな。地元、好きだし」。漠然と思っていた。
高校生になり、進路を決める時期。「継ぎたいんだけど」と父に告げると一蹴された。「お前じゃ絶対無理。朝早いし。魚も減ってもうからない。やめとけ」。ここで人生設計の〝漁師ルート〟が終了した。
サイはふりだしに戻った。何になろう。安定した職がいい。親戚がJRで働いていた。JRに就職しようか。すると今度は拓大紅陵の監督に止められた。「ちょっと待て。もう1回、考えてくれ。野球を続けなさい」。
大学に進む気はなかった。新聞や高校野球雑誌に少し載ることはあっても、野球で上にいけるとは思っていなかった。「野球でとってくれるところがあるなら、仕事しながら野球できるところがいいです、と言って。監督同士が仲が良くて日石三菱、今のENEOSに話をいただいた。全部お任せしてました」。
身を委ねて〝野球ルート〟が延長された。
プロを意識するにはまだ至らない。入社1年目当時、社会人野球は金属バットだった。
「おっさんばっか、しかも金属で、こんなんやっていけないよって。最初のキャンプも、夜中の12時過ぎてからウエートやるぞって言われて。部屋に隠れてボイコットしてました。ついていくのがやっと。試合で投げられないだろうと思いながらやってましたね」
運命は回り出す。新日石の春季キャンプは鹿児島・指宿市。当時ロッテのキャンプ地も鹿児島だった。2年目の2月、ロッテキャンプで大学・社会人が練習できるシステムの派遣メンバーに選ばれた。当時中大の亀井善行(現巨人コーチ)が一緒だった。
専用に配られたユニホームにはなぜか背番号が付いていて、憧れのジョニー黒木と同じ54だった。
「気が引ける思いでしたけど、当時プロなんか考えられない選手が、ブルペンで一緒に投げられる。ジョニーさんのブルペンも見たりして、めちゃくちゃ刺激になったのは覚えてます」
徐々に試合登板が増え、社会人野球の雑誌に取り上げられた。社会人日本代表の候補合宿にも呼ばれるようになった。東京ガス・内海哲也(現西武投手兼任コーチ)らと一緒だった。ドラフトにかかるかもしれないという話が出始めたのは、3年目だったか。
「自由獲得枠」。高校生を除く最大2選手と、ドラフト会議よりも前に契約を結べる制度があった。本格派右腕として4年目の秋、松下電器・久保康友とともにロッテ入団が決まった。実質のドラフト1位、2位と言える。
入団1年目のロッテは最強だった。
「2005年だから。こんなに強かったんだって思いながら。春先は調子がよかったんですけど、1軍に上がれるチャンスもなかった」
ボビー・バレンタイン監督のもと、日本シリーズ無傷の4連勝(対阪神)で31年ぶりの日本一に輝いた年だ。5月には破竹の12連勝があった。
チャンスは不意に訪れた。
「社会人の時から夏場に弱くて、調子が落ちてきた時だったかな。俊さん(渡辺俊介)が肘の違和感か何かでローテを飛ばすってことになって」
6月22日の日本ハム戦で初登板、初先発することが決まった。前夜は緊張で眠れなかった。のちに何度か当時の試合映像を見返した。汗でびしょびしょになりながら、がむしゃらに投げている自分が映っていた。あの日のことは今も記憶が曖昧で、鮮明には思い出せない。(連載3に続く) 【鎌田良美】(敬称略)