日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田には、1回目の監督になったときの苦い思いが残っていた。村山実、金田正泰と続いて、初めて指揮を執った75年シーズンは42歳で血気盛んだった。

世の中は「第2次ベビーブーム」、歌謡曲では「時代」(中島みゆき)がはやった。古葉竹識が率いた広島が初優勝、1年目の長嶋巨人が球団初の最下位に低迷した年だ。

吉田は自身の作戦がはまらなかったり、チャンスに点が入らない拙攻、拙守が続くと、ベンチで怒りまくって、ベンチのイスを思いっきり蹴り上げた。

山城高の野球部後輩にあたる鵜飼忠男は「我(が)がきつい。勝負事には徹底して勝ちにこだわる人。マージャンでもパイをたたきつけました」と苦笑する。

吉田も「星野(仙一)の気持ちがよぉわかりますわ」と甲子園の扇風機をぶっ壊した“闘将”を引き合いに、自らも激しく感情をむき出しにした時代をオーバーラップさせた。

新聞記者とのやりとりでも、つい熱くなった。試合後の会見で同じような質問を繰り返されると「なんべんも聞くな!」「さっき言いましたやろ!」と突き返した。

采配が失敗したことを突き詰められると「そんなんわかっとるわ!」と怒声を響かせた。「スクープ合戦に敗れた一部マスコミは、なぜかわたしにきつかった」と今もちょっと根深い。

「1回目の監督のときに、感情を露骨にあらわにするのは相手に見抜かれてプラスにならないことに気づきました。選手もまた、監督のことをよく観察しているものです。ですから2度目の監督のときは、できるだけ喜怒哀楽を表に出さないように心掛けたんです」

かつて巨人V9監督の川上哲治は、名参謀だった牧野茂に「殺せころせ我が身を殺せ ころし果て何もなきとき 人の師となれ」と筆で書いた掛け軸を贈っている。

その達筆な書に触れると、自らを戒めることを「無私」の心得とし、リーダー論を説いた御大がそこに現れるかのような迫力を感じるから不思議だ。

吉田もできるだけ感情を押し殺し、自ら封じ込めながら戦うことに改心したという。本人から初めて聞いたのは「ヒヤリとしたときは、何度も目をつむった」というエピソードだ。

「例えば抑えの中西が最後を決める1球を投げていい当たりをされると『あっ、危ない!』と胸の内で叫んで、何度も目をつむったものです。はらわたが煮えくりかえるときだってあります。でも相手に悟られてもいけないし、勝ちが求められる」

監督も1球ごとに心を揺さぶられながら采配を振っている証拠だろう。85年は開幕月の4月は9勝3敗1分け、5月初旬にもたついたが上々の滑り出し。熾烈(しれつ)なデッドヒートを演じるシーズンに突入する。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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