日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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前半戦を王巨人と同率の2位ターンした吉田は、球宴期間に甲子園球場で全体練習に踏み切った。

「わたしには首位の広島に迫った3ゲームという数字がこびりついていた。だから意識的に、もう1度チームを引き締めるような練習をしたかったんです。それも個人の練習でなくフォーメーション、チームプレーに時間を割いた。甲子園でナイターをつけ、練習が終わったと思ったら夜10時ぐらいだったのを覚えています」

そのかいあってか、後半戦の7月26日大洋戦(甲子園)から4連勝スタート。だが、31日の中日戦(同)でランディ・バースが自打球を右足甲に当てて「右足根骨剥離骨折」で全治2週間と診断された。

広島、阪神、巨人の激しい三つどもえの展開が続いた。医師の診断通りだと、8月の長期ロードは間に合わない。だが、バースは負傷から5日後、3番の指定席に戻って打席に立った。

阪神は2位で長期ロードに旅立った。初戦の8月6日ヤクルト戦(神宮)を7-4で快勝すると、7日の同戦も12-5で打ち勝って、34日ぶりに首位広島に並んだ。

この一戦は、1-3の3回2死から真弓明信の三塁内野安打が起点で、吉竹春樹が同点の1号2ラン。岡田彰布の勝ち越し打など12人攻撃で逆転。8回にも真弓がダメ押しの3年連続20号をライトスタンドに運んだ。

高校球児に甲子園を明け渡した長期遠征が“死のロード”と表現されたのは、1980年代のこと。97年に開場した大阪ドーム(現京セラドーム大阪)を使用するようになってからは死語になった。

85年は8月6日からヤクルトに3連勝し、10、11日と平和台で主催試合した中日戦にも連勝で好発進。5連勝で首位を保ったチームは移動日になった12日に空路、博多から東京入りする。

その日は13日の巨人戦(後楽園)に向けて、主力以外の若手と投手陣が夕方から神宮室内で練習を行った。午後5時ごろから開始した練習が約1時間を経過し、佳境を迎えたタイミングだった。

午後6時12分に羽田空港を離陸した伊丹空港行きの日本航空123便が、伊豆大島の西方約35キロ付近を飛行中に、緊急事態発生を告げるエマージェンシー・コールを発信していた。その後、操舵(そうだ)システムが機能しなくなった飛行機は、激しく上昇と下降を繰り返し、ダッチロールを続ける。6時56分ごろにレーダーから機影が消え、墜落した。

練習を終えた吉田は、東京都文京区本郷の料亭「百万石」に招かれていた。携帯電話、インターネットもない情報通信が限られた時代。搭乗者名簿に球団社長の「ナカノ・ハジム」が乗っていることなど知るよしがなく、そのまま2次会の六本木に向かう。一報が入ったのは、その時だった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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