日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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秋が深まりゆく夜空に、吉田が宙を舞った。20年間敗れ去った怨念を晴らすかのように、ナインがはじけ、その手によって、小さな体は5回胴上げされた。

1985年(昭60)10月16日、午後9時59分。5万大観衆をのみ込んだ神宮のヤクルト戦は、延長10回の末、5-5の引き分け。1リーグ時代を含めて7度目の歓喜だ。

監督に続いて輪の中心に入った掛布が泣いていた。川藤、バースの巨体が浮いた後は、涙の岡田だ。真弓、平田、木戸、中西らが胸を詰まらせた。

監督として初めて体験した優勝胴上げについて、吉田は「宙に浮くという感覚が分からなかったので、何が起きるのか怖かったですわ」と笑う。

「正直なやつがいますからね。持ち上げるものもおれば、引っ張って落とすやつもおるはずやと冗談半分で話してたんです。それが世の中です。だれかは知らんが、ぼくが落ちないよう、下からだれかに支えられていたのは感じていました。それがだれだったか、今でもわかりません。本当にうれしかったです」

長いプロ野球史にあって「阪神優勝」は偉大なる伝説といえる。この年はロス疑惑、日航機墜落、グリコ・森永事件、豊田商事事件、暴力団抗争など、暗いニュースが世間を揺るがした。

すさんだ世の中に反発するかのようにまい進した姿が大フィーバーを巻き起こす。翌17日付の日刊スポーツが「日本列島は猛虎Vお祭り列島と化した」と報じたように社会現象になった。

大阪・梅田の阪神百貨店前の大歩道橋は人であふれ返って、午後10時半に社長の河西計介によってクス玉が割られると、約6000人のファンから一斉に万歳コールが起きた。

曽根崎警察署は臨時警備本部を設置する異例の事態で、機動隊60人、パトカー10台が出動、御堂筋の入り口を封鎖すると、虎党が練り歩く歩行者天国になる始末だった。

ナンバの道頓堀川に若者が飛び込み、通天閣に「祝優勝」の横断幕が掲げられる。天王寺動物園に現れたファンは飼育係に「お祝いやからトラにおいしいものを食べさせてほしい」と現金を差し出した。

ブラジル・サンパウロの日本食レストランは半額サービスを実施し、タイ・バンコクでは日本人が祝賀会の開催を決めて、邦字新聞で参加を呼びかけた。

フランス・パリのルーブル美術館前に昼休みの日本人が集結。凱旋(がいせん)門では後に仏代表監督の吉田とかかわる日立製作所の浦田良一(元在仏日本人会会長)ら商社マンが“六甲おろし”を大合唱した。

世界的な熱狂は、後にも、先にも例がなかった。その価値観は単に経済効果だけではかれない。財界では阪神が優勝すれば、日本経済が浮揚するとまでささやかれたほどだ。

チーム219本塁打、141犠打は当時のセ・リーグ新記録。投手力を「打」&「守」でカバー。センターラインを確立し、守りで攻めた。それは“吉田野球”が結実した瞬間だった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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