阪神岡田彰布監督(65)が17日、兵庫県西宮市の鳴尾浜球場で阪神・淡路大震災の犠牲者へ黙とうをささげた。28年前、6434人の命を奪った当時を「忘れられん1日」と思い返した。95年はオリックスで現役最後の1年を過ごし、「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ制覇に貢献した。震災を知らない世代も増えてきたが「ずっと継続していくやろ」と、今後も風化させないことを願った。

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岡田監督は約60人の選手、スタッフ、球団首脳らと並び、1分間、静かに目を閉じた。「もう28年か」。震災当日は所用で高知にいた。「(高知も)揺れた、揺れた。目が覚めた。すぐに『テレビつけい』と言われたわ」。翌日、空路で伊丹空港に着いたが、通常は車で約25分の西宮市内の自宅まで7時間ほどかかった。「山登ったわ。宝塚の。がれきで通れんかった。もう動けへんような状態やったもんな」。車の中から見る光景に言葉を失った。

当時、在籍したオリックスは神戸を本拠地にしていた。水も電気も来ない自宅で過ごし、練習もできないままキャンプ地の沖縄・宮古島へ。「もう野球はできるかどうかっていうあれやったけどな」。キャンプ後は選手寮に住み、シーズンイン。「がんばろうKOBE」のワッペンを袖にプレーした。「結構お客さん入った。ものすごい刺激になった。優勝できたし、神戸の人は野球見て勇気を与えられたのはあった」。プロ野球選手として、被災地を励ました現役最終年は今でも忘れられない。

17日は本来なら大阪で野茂と会う予定だったという。近鉄から国内他球団に移籍できない「任意引退選手」となり、米球界挑戦を考えていた日本のエースと日本プロ野球選手会の会長として相談を受けるはずだった。「野茂も東京から来れんとか。新幹線も、そんな状況やった。(その後も)会う状況じゃなかった」と、会談は幻となった。

チーム内にも震災を知らない世代が増えてきた。「そうやな。もう28(年)言うたらな。それはもうずっと継続していくやろ。これはな。あんなひどい災害やったから」。震災を忘れてはいけない。15年ぶりに阪神で指揮を執る今年は「アレ(=優勝)」で関西を元気づける。【石橋隆雄】

◆岡田監督のプロ野球選手会会長時代 92年7月の、労働組合プロ野球選手会定期大会で、第3代会長に就任した。前任の原辰徳会長(巨人)の後を受け、フリーエージェント(FA)制導入に奔走。場合によってはストライキも辞さない姿勢を示した。岡田会長の尽力により、FA制度は93年オフに導入された。また、12月と1月のポストシーズンでの合同自主トレの実施を、拒否することも決議。95年オフには正田耕三(広島)に会長を譲った。

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