大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。野茂英雄、イチローらを育て上げ、いまだに語り継がれる「10・19」の名勝負を演じた名将。阪神・淡路大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を旗印に戦った。“仰木マジック”を支えたコーチとも、時に対立しながら頂点に立った。

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仰木は西鉄ライオンズの名選手ではなかったが、近鉄、オリックスで名監督になった。約20年間のコーチ業で蓄積した野球観が“仰木マジック”と称されて花開いた。根底には名将三原脩の教えが潜んだ。

しかも投手コーチとぶつかり合いながら勝った。近鉄で権藤博、オリックスでは山田久志という、現役時代に大記録を築き、投手の素材、能力を見極める眼力、操縦について右に出るものがいない男たちと戦い抜いた。

もっとも権藤も、山田も「権限」が監督にあることは当然わきまえている。権藤は「『ここは我慢しましょう』といっても聞かんのだから。ただずーっとデータを見てるけど攻撃の作戦、采配は当たるからね」と認める。

山田も「リリーフは毎日投げられると思っているのかと、最初はこんなピッチャーの使い方をしてたのではもたないと思いました」と言いながらも「選手操縦法が上手で、勝負度胸があった」と語った。

ただ投手管理という点では、権藤は酷使を許さなかったし、ドジャースのベロビーチキャンプで学んだ「Don’t over teach(教えすぎない)」の信念を曲げなかった。

山田は「仰木さんから『代えろ!』っていわれてベンチでケンカするんだから」といって持論を展開する。

「普通、コーチというのは監督サイドにつかないといけない立場にある。でも投手コーチってのはちょっと違うんです。ピッチャーは本当にデリケートだから、極端にいうと投手を預かるコーチは人生まで考えてあげないといけないんです」

近鉄、オリックスで頂点に立つことができたのは「監督」「投手コーチ」が衝突しながらも、どこかでそれぞれが認め合っていたからだろう。監督仰木をもっとも知る男で、名コンビだった中西太は両者の関係を説いた。

「山田はいい指導者だった。阪急のスーパースターで、プライドもあっただろう。でも、そこはそこで折り合って、選手をなぐさめたり手綱を引くのはコーチで、またいかに監督を手助けしてやれるか。使う、使わないはトップの決断。監督との確執は誤解だろう。でもそれぐらいの気持ちがないと、プロなんだから、生ぬるいことをやっとったんじゃ勝てない」

仰木は「管理」より「個」を尊重しながら戦ったリーダーだった。それはまた名コーチらの個性までも操っていたというのは言い過ぎだろうか。

(敬称略、おわり)

【寺尾博和編集委員】

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