日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

真夏の8月1日、甲子園球場が“99歳”を迎える。1924年(大正13)のこの日、「甲子園大運動場」として産声を上げた。来年100周年のメモリアルに向けてのカウントダウンが始まる。

1999年、創刊50周年の日刊スポーツがさまざまな分野を対象にした「200X年 XXが起こる」というタイトルのスペシャル企画で甲子園球場を題材として取り上げた。

日本は平成不況、金融問題に揺れた時代で、私鉄はマイカー台頭、輸送人員数が伸び悩む転換期だった。一方で、愛知万博、関空2期工事、USJ開業など、ビッグプロジェクトを控えていた。

予想のつかない本紙企画も、阪神電鉄首脳、施工の大林組関係者、日本高野連会長の牧野直隆までが、甲子園の未来を語っている。当時の掲載記事からは、拙者も真面目に取材していたことが分かる。

甲子園の将来像は「天然芝と青空とツタを残した、超ハイテク球場」として姿を残している結論に至った。球場を中心にした一帯が「スポーツタウン」になっているとも予想した。

「本紙予想2009年 実現率60%」などと、だれが決めたのだろう。ただ中身は楽しく、夢のあるストーリーだった。ハイテク甲子園のメインは「移動式銀傘のエアカーテン」だ。

まず内野部分の銀傘をアルプスから外野方向にまで伸ばす。雨が降り出すと、周辺を覆う銀傘が油圧でグラウンド方向に移動。客席からみると、ぽっかりと上空に丸い穴が出来た形になる。

そして銀傘の先から出したエアによって見えない空気の膜を作る。つまりエアカーテンの屋根を作るシステムで、降雨を防ぐという奇抜なプランだ。

阪神内部でもドーム化の意見が大勢を占めたこともあった。だが米大リーグでは90年代にドーム建設ラッシュに歯止めがかかる。当時の大林組幹部は「近未来的にゼネコンが提案するのは天然芝の開閉式ドームになる」と見通しも語った。

阪神は「野球に重点を置く」「天然芝」「伝説と風格の継続」「娯楽性、アメニティー」「近隣住民への配慮」という5原則をまとめる。青空のもと、芝の上でプレーするスタイルは変わらなかった。

もともとは草木が茂った荒廃地だったという。阪神電鉄車両課長の丸山繁とニューヨーク支局にいた朝日新聞社社員の小西作太郎の2人が、米大ジャイアンツのポログラウンズを視察したのが契機だった。

丸山がその設計図を持ち帰ると、阪神電鉄で実質的社長の専務・三崎省三が、入社したばかりの技師・野田誠三に球場の設計図作成を命じる。その後、三崎によって「甲子園」と名付けられるのだった。

その間の経緯は語り尽くされてきた。悠久の時を超えてきたことを思うと、伝統と歴史の重みを感じずにはいられない記念日でもある。(敬称略)