中日、阪神で活躍した大豊泰昭(たいほう・やすあき)氏(本名・陳大豊=ちん・たいほう)が18日午後10時41分、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去した。51歳。台湾から84年に来日。中日の主砲だった94年には本塁打、打点の2冠を獲得した。あこがれの王貞治氏と同じ1本足打法の長距離砲として通算277本塁打。引退後の09年に白血病の診断を受け、闘病生活が続いていた。葬儀、告別式は近親者で執り行う。喪主は妻百合子(ゆりこ)さん。

 屈強な肉体とパワフルなスイングで魅了した大豊さんも、病魔には勝てなかった。18日夜、思い出の詰まった名古屋で波瀾(はらん)万丈の人生を静かに閉じた。

 王貞治氏にあこがれ、20歳だった84年に台湾から日本に渡った。名古屋商大から1年間の中日球団職員を経て、88年ドラフト2位で中日入り。1年目から14本塁打を放って活躍。93年の1本足打法挑戦をきっかけに飛躍。翌94年には38本塁打、107打点で2冠王に輝いた。

 94年、巨人との「10・8」決戦でも4番を務め、敗れた。トレード移籍した阪神での3年間も含め、現役14年間で優勝は1度もなかった。豪快なスイングの代償で三振も多かった。阪神の4番を任されたが、チームは最下位で「台湾に帰れ」などヤジも飛ばされた。「お前のパパ、三振ばっかりやって」。当時小学校低学年だった長女はいじめられたという。「俺の娘に生まれたばかりに…。子どものためにも打たないといけないんだ」と男泣きした夜もあった。97年6月5日の横浜戦。ディミュロ球審のストライクの判定に「何でなんだ」と日本語で言ったにもかかわらず暴言退場に。不器用さが数々のドラマを生んだ。

 グラウンドを離れると、温厚そのものだった。大豊さんが球団職員だった88年から寮に入った中日OB立浪和義氏は「高校から入って、話す人があまりいなかった僕をかわいがってくれた。大豊さんと話しているときが、安らげる唯一の時間だった」と振り返る。

 02年限りで引退したあとも、山あり谷ありだった。中日のアジア地区スカウトとして故郷台湾のチェン・ウェイン(現オリオールズ)獲得に貢献した。その後、名古屋市内で台湾料理店を開き、自らもきさくに接客するなど人気を集めた。現役時代から有名な大食漢で、飲食店を開くことが引退後の夢だった。

 だが、苦難はここからだった。05年に弘子夫人を突然の心筋梗塞で失った。そして09年、自らが白血病と診断された。絶望の中、妹の骨髄を移植し、一時は持ち直したが、再発。岐阜・海津市に店を移していた昨年10月に、治療に専念するため休養を宣言した。

 その際、店のホームページにはこうつづっていた。「大豊泰昭はこの病気を克服し、またみなさまに再会できるよう強い意志で病気と闘います。その時は、1番の笑顔で店に立ち、夢の続きをみなさまと一緒に見たいと思います。本当に今までありがとうございました。大豊の運勢と生命力をかけて、必ず復活します。また、逢いましょう。野球人

 大豊泰昭」。復活への決意をにじませた。

 最後は現役時代からは想像のつかない、やせ細った姿になっていたというが、努力で切り開いた野球人生と同様に、希望を失わず、最後まで闘い続けた。

 ◆大豊泰昭(たいほう・やすあき)本名・陳大豊。1963年11月15日、台湾南投県埔里生まれ。兵役の関係から台北市の華興高で卒業後も2年間コーチを務め、20歳で来日。名古屋商大に入学し、現在も愛知大学リーグ記録の通算24本塁打。来日5年で日本人扱いとなるため、卒業後は1年間中日の球団職員に。88年ドラフト2位で中日入団。94年に本塁打、打点の2冠。同年の広島戦18本塁打は、現在も同一カードのシーズン本塁打日本記録。巨人との最終戦決着となった「10・8」では4番を務めた。97年オフに矢野とともに、関川と久慈+金銭の交換トレードで阪神へ移籍。00年オフに契約更改交渉がこじれて自由契約となり、中日復帰。02年現役引退。現役時代は185センチ、95キロ。左投げ左打ち。引退後は中日スカウトを経て、04年名古屋市に飲食店「大豊飯店」を、11年岐阜に「大豊ちゃん」開業。長女の祐子さんは芸名「ひろ香祐」で宝塚歌劇団星組の男役。元ロッテの大順将弘内野手(本名・陳大順)は実弟。