国境、性別の差を超えて世界中にファンを持つプロレスラーがいる。米団体WWEの“女帝”ことアスカ(ASUKA=38)だ。コロナ禍中の無観客試合でも活躍を続け、5月にはWWE女子全タイトル制覇の偉業を達成した。プロレス界のトップを走るアスカはこれまでどんな道を歩み、そしてどんな未来を描いているのか。「アスカの歩む道~“女子プロレス”を超えて~」と題し、単独インタビューを3回にわたり掲載する。

       ◇    ◇

ピンクと緑の髪に、おどろおどろしい緑のフェースペイント。着物と毛皮をミックスしたガウンをかぶり、白い面を手にゆらゆらと踊る。室町時代のかぶき者を現代風に解釈したようなアスカのスタイルは、スターひしめくWWEの中でもひときわ目立っている。

WWEのスーパースターとして活躍するアスカ(C)2020WWE,Inc.AllRightsReserved
WWEのスーパースターとして活躍するアスカ(C)2020WWE,Inc.AllRightsReserved

しかも話すのは英語ではなく大阪弁。アスカは「自分のやりたいことを自分で考えてやらせてもらっている」と明かす。15年の入団以来、その個性を武器に活躍を続け、今年5月にロウ女子王座を獲得。NXT女子、スマックダウン女子、WWE女子タッグ、ロイヤルランブル優勝を合わせた女子全タイトル制覇、グランドスラムを達成した。

大阪人キャラのまま世界中にファンを持ち、男女交じった大会でメインを務める彼女の奔放な姿は、古い価値観の中でもがく人々に勇気を与えてくれる。そんなアスカは、これまでどんな道を歩んできたのか。子どもの頃から振り返ってもらった。

大阪に4つ家を持つ裕福な家庭に生まれた。「シャイで、人としゃべるのが恥ずかしい子でした。学校終わったらすぐに帰って、マンガ読んだり、ゲームしたり、撮りだめたビデオをずっと見たり…。ほんまそんな感じでした」。マンガは少女漫画に加え、兄の影響で「シティーハンター」「キン肉マン」「北斗の拳」も愛読。一番好きなゲームは「がんばれゴエモン」だった。

プロレスの洗礼を受けたのは高校1年生の頃。きっかけは吉本のお笑いだった。「当時、大阪の吉本の若手芸人さんがすごいはやったんですよ。テレビで(ケンドー)コバヤシさんがプロレスのコスプレとかしてて、深夜の新日本のテレビ番組を見てみたんです」。

軽い気持ちで見たつもりが、一目で引き込まれた。「最初に見たのが武藤敬司さん。オレンジのパンツはいてて、むちゃくちゃ格好良かった。それまでのプロレスのイメージは大仁田厚さんの爆発して何百針縫った、みたいな。だから男前の方がきれいな動きをしていて驚いて」。あまりの格好良さにとっさに録画ボタンを押した。以来、新日本プロレスに夢中になった。

ある日、大好きな芸人バッファロー五郎のラジオ番組を聞いていると、元女子レスラーの本谷香名子がゲスト出演した。「女子でもあるんやーって初めて知って」。レンタルビデオ店で女子プロレスも借りて見始めると、プロレスラーになりたい気持ちが固まっていった。「なれる気がしたんです。直感。それしかない。何となくです」。

高校卒業後の進路を決める際、プロレスラーになりたいと母に初めて告げた。「『はぁ? 何言ってんねん』って言われました」。高校の担任教師にも「めっちゃ笑われたんですよ」。周囲の説得に失敗し、結局デザインの短大に進学。卒業後はデザイン会社に就職し、楽しく仕事を続けていた。だが、「どうしてもあきらめられない」と20歳を過ぎた頃、プロレスへの思いが再び高まった。

15年9月8日、WWEで会見を行い、契約を発表。当時のリングネームは華名
15年9月8日、WWEで会見を行い、契約を発表。当時のリングネームは華名

その時、友達の薦めで、大阪・天王寺の有名な占い師を訪ねた。「プロレスラーになりたい」と告げると、返ってきたのは「はぁ? 何言ってんの、あんた。そんな危ない仕事やめえ」。アスカは悔しさのあまり、翌日すぐ女子プロレス団体アルシオンに入団の電話をした。「占いをきっかけにしたかったんです。たぶん何を言われても関係なかった。背中を誰かに押してほしかったんでしょうね」。履歴書を送り、とんとん拍子で入団が決定した。

しかし、待っていたのはつらい日々だった。スーツ姿でアルシオン道場を訪ねると早速白い目で見られた。「まじでスーツ着てきたん? みたいな感じで。こういう感じなんやと思って」。日々の練習で技術は順調に身についたが、問題は雑用。先輩から理不尽な仕事を度々押しつけられた。「巡業だと試合が終わって、食事をして、深夜になってからみんなのコスチュームを洗って、干す。結局寝るのが朝4時とか。干して数時間後に渡さないといけないので、ドライヤーで乾かして。乾いてなかったらめちゃくちゃ怒られました。なんか違うなと感じながらもその状態が1年ぐらいは続きました」。

当時のリング名は華名。その名の通り見た目も華やかで、将来性もある若手だったため、雑誌によく取り上げられた。「『雑誌にのって調子にのんなよ』みたいな意地悪なことを言われるんですけど、結局、嫉妬やったんやと思いました。きついことされてるのはそうだったんだな」と。

06年に慢性腎炎のためいったんリングを去るが、翌07年に復帰。そこからは周囲を気にするのをやめた。「へこへこすんの、やめようと思って。復帰してからはえらそうにしてたので、あまり上から言われなくなりましたね(笑い)」。

10年に発表した「華名のマニフェスト」も賛否を呼んだ。“個性の確立できぬ者は去れ”“レスラー同士の慰め合い傷の舐(な)め合いはするな”など従来の女子プロレスに異を唱える内容。直接批判はなかったが、試合会場で1人控室を別にされることもあった。「私に対して気にくわないと思う人がほんまにいました。私は正しいと思って言っていたので。自分を変えずにここまで来ました」。

自信とともに、野望も生まれた。「男子、女子関係なく、プロレス界の1番を狙うには海外にいくしかない。アメリカにいって世界をとるぞという気持ちでした」。10年からプロデュース興行を実施し、14年には聖地後楽園ホールにも進出。男女問わず戦い、面白い試合をみせる“華名”の名は世界にも知られるようになっていった。「自主興行は海外からスカウトされるためにやっていた面もありました。全国どこでも、後楽園でも大成功して、YouTubeやツイッターでも海外のファンが注目してくれていたので、これなら海外でもやっていけると自信をさらに持ちました」。

そして、WWEから念願のオファーが届く。口説き文句は“世界で1人だけ選手を選ぶとしたら、あなたを選びます”。迷わずWWE行きを決めた。(つづく)【高場泉穂】

◆アスカ(ASUKA)の主な歩み◆

1981(昭56)年9月26日 大阪市に生まれる。本名は浦井佳奈子。

2004年6月16日 AtoZ後楽園大会対玲央奈戦でデビュー。リングネームは華名。

2006年3月19日 慢性腎炎で引退

2007年9月22日 SUN新宿大会対高橋奈苗戦で復帰。以後フリーとして活動。

2010年8月 週刊プロレス誌上で女子プロレスについて問題提起する「華名のマニフェスト」を発表。波紋を呼ぶ。

2014年2月25日 自主興行「カナプロマニア」を後楽園ホールで開催。

2015年9月8日 WWEで会見を行い、契約を発表。

2015年9月15日 後楽園ホールで自主興行を行い、日本マットに別れを告げる。