JR水道橋駅は、人でごった返していた。3月9日。みな、そろって同じ方向へ歩みを進めた。西口から後楽橋を渡ると、目的地は見えてきた。東京ドーム。WBCの日本の初戦(対中国)ということもあり、人の数は異常だった。まして大谷翔平(28=エンゼルス)が先発するということもあり、球場周辺には「OHTANI」のユニホームを着た子どもたち、仕事終わりのサラリーマンであふれていた。

そこから約50メートル手前だろうか。球場に吸い込まれる笑顔の人々とは相反し、どこか神妙な面持ちで6階建てのビルに入って行く人たちがいた。多くの人々は「原田大輔」のグッズを持参している。目的地は5階の後楽園ホールだった。日本中がWBCに熱視線を送る中で、プロレスリング・ノアの原田大輔の引退試合がひっそりと行われた。

36歳。現役引退には、まだ早いとも思える年頃。それは突然だったという。昨夏。ノアが定期的に行っている健康診断で、MRI検査を行ったところ頸椎(けいつい)環軸椎亜脱臼が見つかった。患部が首ということもあり、昨年8月27日から試合を欠場。以降、精密検査、治療を続けてきたが、回復の兆しが見られなかった。

「これ以上試合によるダメージを受けた場合、最悪命にも関わる」

無念のドクターストップ。ノア、原田との話し合いのもと、引退が決まった。本人に自覚症状はなかった。痛みなんて、プロレスラーであれば日常のもの。ただ、首の痛みはなかった。だからこそ原田は悔いた。「本当に引退するの?って自分が思うくらいで」。大好きなプロレスが出来ないもどかしさ。「プロレスをやる場所はノア」。そんな男にとって、無念という言葉では片付けられない現実だった。

午後6時30分から始まった後楽園大会。第3試合に、原田の引退試合が行われた。とはいえ、医師立ち会いの、1分間のエキシビションマッチ。1分という時間が限界だった。入場の際に、既に涙するファンの姿もあった。リングで待ち受けたラストマッチの相手は小峠篤司(37)。原田が大阪プロレスでデビューした時の対戦相手であり、ノアに加入した時の初試合の相手も小峠だった。試合開始のゴングとともに、強烈なラリアットをくらわせた原田だが、投げられない。チャンスがあっても、投げることはかなわなかった。

試合は時間切れの引き分け。原田のプロレス人生に終わりを告げるゴングが鳴ると、小峠は涙した。人目もはばからず、大粒の涙を流した。ファンも涙交じりの原田コール。原田はかみしめた。バックステージで「すみません、今日の1分が僕の限界です」と言った。小峠は「神様なんちゅー、ひどいことするんやな。なんで、原田? 俺にすればいいのにって」。苦楽をともにしてきた2人だからこその時間、リングだった。

格闘技担当になって約1カ月が経過した。これまで担当した野球、サッカーでも故障により、無念の引退を選択せざるを得ないアスリートの姿を多く見てきた。ただ、これほどまでに命の危険と隣り合わせの現場は記者人生でも初。原田は言った。

「これから医療チームの先生とかプロレスリング・ノアのみなさんに残してくれたこの命を大事に生きていきます」

ファンを笑顔にするため、自身の価値を高めるため、プロレスラーは並々ならぬ思いで、リングに上がっていることを痛感した。

「3・9」。水道橋は、確かに熱かった。【栗田尚樹】

9日、首の負傷で医師立ち会いのもと、1分間のエキシビションマッチを終えた現役引退する原田大輔、手前は対戦相手の小峠篤司
9日、首の負傷で医師立ち会いのもと、1分間のエキシビションマッチを終えた現役引退する原田大輔、手前は対戦相手の小峠篤司