札幌市で行われた夏巡業に、1人の元力士が訪れていた。紺野幸浩さん(57)。現在、水産物の卸売りなどを手がける「株式会社イチマル渋谷」で社長を務めているが、以前は「北錦」のしこ名で角界にいた。その師匠は誰あろう、元横綱大鵬。最高位は三段目で、わずか3年しか在籍しなかったが「オヤジ」と呼ぶ師匠との仲は、実に濃いものだった。紺野さんに思い出を振り返ってもらった。

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 「忘れもしない、昭和52年(1977年)2月13日でした。新弟子で入門する自分を迎えに、住んでいた北海道北見市にオヤジが来る予定だったんです。でも、来なかった。マネジャーから連絡がありました。朝、歯を磨いていて、バタッと倒れたと。『まさか』とびっくりしました。オヤジはすぐに入院です。自分は結局、次の日にマネジャーが迎えに来て、部屋へと行きました」。

 脳梗塞で倒れて運ばれた入院先の病院が、師匠「大鵬親方」との初対面。左半身にはまひが残っていた。それから3年間、引退するまで師匠の付け人を務めた。

 「リハビリはすごかった。おかみさんと、部屋近くの清澄公園をただ歩くだけ。私も後ろをついて歩きました。歩いて歩いて、2時間は間違いなく歩いた。もっと歩いたときもあった。止まろうとはしなかった。オヤジは左半身が動かなかったけど、やっぱり強かったです。あるとき、規律を守らなかった兄弟子に怒って、右でひっぱたいたんです。吹っ飛んだ。大げさでなく、本当に転がっていった。すごかったです」。

 そのとき初めて「大鵬」の強さを間近で見て、恐れ入ったという。それでも、紺野さんにとっては優しいオヤジだった。

 「大鵬部屋に入ったのは、おふくろの弟が(北海道の)川湯でオヤジと同級生で、その縁です。オヤジからは『高校に落ちたら来い』と誘われていましたが、進学した。でも、1年間通った後で、もう1度「来い」と誘ってくれました。忘れていなかったんですね。その言葉で、親にも誰にも相談しないで『行く』と決めてしまいました。やめたのは根性がなかったから。それでも本当にかわいがってくれて、やめるときも『マネジャーになれ』と言ってくれました」。

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 引退後、紺野さんは市場に入って鮮魚店に勤め、37歳で「海鵬フーズ」という社名で会社を立ち上げた。「鵬」はもちろん、オヤジから。そのことを報告すると「サイン色紙を持ってこい」と言われた。そして「30枚書いたら教えろ」と、今は世話人の友鵬に伝えて、サインを書き始めた。そのとき、紺野さんの兄弟子でもある友鵬は機転を利かせた。「何枚だ?」と聞く師匠に「まだ○枚です」と言う。結局、サイン色紙は100枚になった。気づかないわけはない。でも、大鵬親方は、気づかないふりをしてくれていたのだろう。

 「サイン色紙を会社設立の引き出物に使いたいと伝えると、大喜びしてくれました。お礼じゃないですが、お金を持っていったんです。そうしたら怒られました。そして、オヤジに『木を持ってこい』と言われて…。何をしたかというと、看板を書いてくれたんです。『大鵬幸喜』とサインを入れてくれたんです。今もあります」

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 13年1月19日の初場所7日目。紺野さんは家族4人で初めて大相撲を見に、東京を訪れた。直前に部屋に行ったが、オヤジには会えなかった。入院していると聞いた。そして、結びの一番を終えて弓取り式が始まったとき、観客が「大鵬、万歳!」とさけんだ。そのとき、友鵬から着信があった。「オヤジが死んだ」。

 「本当に、不思議な運命を感じました。入門のときもそう。そして、最期のときも…」。

 前年のオヤジの誕生日。祝いの席に顔を出したときに、こう言われた。「お前は相撲取りをやめた中で一番出世なんだから、あいさつせい!」。

 「そう言ってもらえたのは、本当にうれしかった。北海道に来ると、連絡もなしに突然、会社に来るんです。酔っぱらって電話が来たことも2回あります。オヤジは、せっけん1つ買うことにも領収書にうるさい人でした。10円、20円をしっかり削ろうとする。飲みでは10万、20万円を使うんですけどね。でも、そこは付け人として本当に教えられました」

 数年後、大鵬部屋に税務署の調査が入ったことがあった。そのとき“何も”取られなかった。それは、とても珍しいことだという。それだけ、キチッとしていたのが大鵬親方。そのオヤジの教えは、今の紺野さんの商売につながっている。

 「すべてが、オヤジに教えられたこと。本当にデカイです」。

 「大鵬」の教えは今も、さまざまなところで引き継がれていた。【今村健人】