新日本プロレスの天山広吉や小島聡、真壁らを育てた元プロレスラーの大剛鉄之助さんが11月4日にカナダ・カルガリーで亡くなった。死因は大腸がん、75歳だった。

 大相撲の幕下力士だったが、66年に東京プロレス旗揚げ戦でデビュー。73年に31歳でモントリオールに遠征して以来、カルガリーで交通事故に遭い、右足を切断。32歳で現役引退を余儀なくされて、そのまま44年間、ずっとカナダ在住だった。

 その後は、国際プロレス→新日本プロレスの海外エージェントとして多くの外国人レスラーを日本に送り込み、同時に新日本の若手レスラー(ヤングライオン)をカルガリーで育成したコーチだった。

 昔から、大剛さんのカルガリー修行に旅立った若手は誰しもが、数カ月後には、体が一回りも二回りも大きくなって帰国できた。“カルガリー人体改造工場”とも呼ばれた。それゆえに、底の浅いプロレス記者の中には「ステロイド(筋肉増強剤)を打ってきてるんだろう」なんて、陰口を言う者もいた。

 私が担当だった14年前の03年も、伸び悩んでいた天山広吉が夏前に修行に飛び、帰国直後のG1クライマックスで、悲願の初優勝を飾った。間近で、ビルドアップした肉体を目撃しただけに、私もそんな疑惑を抱いた1人だった。

 そこで、00年に4カ月の修行をへて、Jr.ヘビー級からヘビー級のレスラーに進化した経験のある大谷晋二郎と酒を酌み交わしたある夜。ベロベロに酔った勢いで、ズバリその疑惑を質問してみた。

 すると、一笑に付されて、修行時代の話を詳しく教えてくれた。

 「毎朝6時。定宿の安モーテルのドアがドンドンたたかれる。大剛さんが起こしに来るんだ。7時からトレーニング開始。ベンチプレスなどやらせてくれないんだ。例えば、角度をさまざまに変えての腕立て伏せ。それだけで1時間。毎日7時間のトレーニング。その間、休憩は大剛さんがたばこを吸いに行く5分だけなんだ。あとのインターバルはせいぜい30秒。唯一、ダンベルを使うのは、上腕二頭筋を鍛えるカールの時だけ。背中を壁につけて、空気イスをさせられながらの、地味な半カールを延々とやらされる。『非力だな。俺の現役時は100キロのバーベルでカールをやったもんだ』って。100キロのカールなんてボブ・サップもできないわ!(笑い)。このうそつきオヤジって思いながら、やり続けたよ。ずっと付き添ってくれるもんだから、絶対にサボれないんだ」。

 本当に苦しいのは7時間のトレーニング後だったという。市販のプロテインを飲んだ後に、レストランに連れて行かれて、大谷の自腹でだが、5、6人分の食事を食べさせられた。

 「飯なんて食べられないほどヘトヘトなのに『何時間かけてもいいから全部食え』って監視されてね。3時間もかけて、やっと食べ終えて『もう満腹で限界っす』と言うとね、大剛さんの1人前の茶わんに、ひと口分だけごはんが残ってて。『すまん。食べきれないから、食べてくれ』って頼まれたんだ。『はい』って、ひと口を食べたらさ、『この野郎~! 限界じゃねぇじゃねぇか』って怒鳴られてさ、『トレーニングも食事も満腹、限界って思ったところからがスタートだろ。そこからどれだけやるか食うかがレスラーだろ』って激怒されたよ。それからは大剛さんの前で長時間かけて食べながら、たまにトイレで吐く。強くなりたいから、夜も1人で大剛さんがさせてくれないベンチプレスや器具を使ったトレーニング。あそこまで肉体だけを追求していたら、誰でもデカくなるよ」。

 大谷は、そんな生活を2カ月続けてプラス10キロ。過酷な英国遠征2カ月でマイナス8キロ。再びカルガリーに戻っての2カ月でプラス10キロ。合計12キロの増量を果たして、晴れてヘビー級レスラーとして凱旋(がいせん)帰国した。

 ばかばかしいぐらいに原始的なトレーニングだなぁと思っていると、「信じられないなら、試しに1カ月でいいから毎日限界まで筋トレして、吐くまで飯を食べてみな」と言われた。

 実際にカルガリーにまで、大剛さんの特訓を見学に行く時間も経費もなかった私は、大谷選手の言葉通りに、自ら人体実験を試みてみた。激しいトレーニングはもちろん、後にも先にもないほど、ご飯を食べた。毎日、食事をする時間が憂鬱(ゆううつ)なぐらいに食べた。

 結果は、もともとガリガリ体質で、筋トレしてもいわゆる痩せマッチョにしかなれなかった私が、1カ月で見事に10キロアップ。内訳は、筋肉8キロ、体脂肪2キロだった。どうしたって自分へ甘さがでる自主トレーニングで、この成果だ。そりゃあ、鬼コーチがつきっきりならば、レスラーがさらに屈強になるのも当然だと、納得できた。

 非効率かもしれないが、こういう豪快な、ムチャクチャな感じが、今の時代では、たまらなくいとおしく感じてしまうのは、私だけだろうか。