プロレスには不思議な力がある。戦後始まった日本のプロレスは、カタチを変え、苦難を乗り越えながら続き、時に人々を勇気づけてきた。新型コロナウイルスの影響で業界全体が苦しい状況にある中、新日本プロレス旗揚げの年に生まれ、24年の選手生活で地獄も天国も見てきた苦労人、真壁刀義(47)の視点からプロレスの力を見つめ直す。【取材・構成=高場泉穂】

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ウイルスという、見えない敵と戦う日々。緊急事態宣言が解除されても、その終わりは見えず、人々の不安は消えない。

真壁は「こういう時こそ本領発揮しなくちゃいけないのがプロレスだと思う」と言葉に力を込めた。

プロレスは主に屋内で行われ、密集、密閉、密接の「3密」が当てはまる。新日本は2月末の興行を最後に52試合を中止していたが、6月15日から無観客での試合再開が決定した。7月11日の大阪城ホール大会から観客を迎え、興行を行う。

1972年(昭47)の旗揚げ以来、110日間も試合が中断したのは初めて。それでも、真壁ら選手たちは再開に備え、変わらず体を鍛えてきた。リングの上で戦う姿が何かの力になると信じて。

「俺は最後に勝ちゃいいじゃねえか、と思ってんだよね。プロレスは1回、2回、3回負けた。それでも4回目、5回目に勝ちゃいいの。何か人生でつまずくことがあったとする。そのままあきらめるんだったら、あんたの人生はそれでいいじゃん。ただ、あきらめないでいこうと思ってんだったら、さぁがんばれよ、ってケツをたたきたいね。まわりの人間がどう思っているかは関係ない。自分自身がどう転がるか、どう戦うかだよ。俺の言ってることは確かに理想だ。簡単に言うなと思うかもしんないけど、言ってんの俺だぜ?俺、言っとくけど地獄の底を見てきたからね」

プロレスが日本で本格的に始まってから今年で69年。いい時も、悪い時もあった。それでもプロレスは現在まで続いてきた。その不思議な力とは何なのだろうか-。今年でデビュー24年目を迎える真壁は、業界の浮き沈みを、身をもって経験してきた。

真壁が新日本に入門する90年代後半、プロレスはブームを迎えていた。96年4月29日、新日本プロレス東京ドーム大会。その翌日に入門を控えた真壁は地元の幼なじみとともに2階スタンド席にいた。

メインは新日本の“破壊王”橋本真也とUインター高田のIWGPヘビー級選手権。団体の威信をかけた2人の攻防に1つ1つに、大歓声が重なった。終盤、橋本がミドルキックをきっかけに流れを引き寄せ、最後は垂直落下式DDTから三角絞めに持ち込み勝利。びっしり埋まったドームが、大きく揺れた。

真壁は米粒のように小さく見える2人を見ながら、ぼんやりと自分のことを考えていた。

「東京ドームのスタンド上の上まで超満員。本当にびっしり埋まってた。試合を見ながら、明日から、この団体に入るのかぁ…て不思議な気持ちだったよね」

翌日、東京、世田谷・野毛の道場で行われたドーム大会一夜明け会見には、団体創始者のアントニオ猪木、長州力、橋本真也ら当時の新日本のスターが集結した。

多くの報道陣も駆けつけ、狭い道場はぎゅうぎゅう詰めとなった。その中に放り込まれた新人真壁は「本日、入門しました真壁です!」と先輩たち1人1人にあいさつしてまわったが、ことごとく無視された。

「目の前に立ってあいさつしても、返事もしてくれねえの。何でかっていうと、俺が明日までいるかどうかわかんないから。当時はすぐ辞めるやつが多かったの。夜逃げ。練習や環境がきつすぎて、朝起きると、逃げちゃうんだって。おれがあいさつしたところで、みんなこいつ残るわけねぇって思ってっからさ。“空気扱い”だった」

当時は政界から一時身を引いた猪木が道場によく顔を出し、選手を叱咤(しった)激励していた。上下関係は厳しく、若手はデビューするまで先輩の理不尽なしごきに耐える。華やかな表舞台の裏には、そんな殺伐とした環境があった。

真壁は「言い方は悪いけど、殺意がないと残れなかったよ」と振り返る。つらくても、夢半ばで辞めるのはプライドが許さなかった。

それまで、プロレスラーは日本人にとって長く憧れの対象だった。戦後、日本で本格的なプロレス興行を始めたのは、大相撲の元関脇、力道山。空手チョップで次々と外国人選手を倒す姿は復興の象徴となった。

その弟子のジャイアント馬場が全日本、アントニオ猪木が新日本プロレスを72年に旗揚げ。今ほど娯楽が細分化されていなかった時代。ゴールデンタイムでお茶の間に広まったプロレスは野球、相撲に並び国民に愛されるコンテンツだった。

元横綱の輪島、元五輪選手の長州力、馳浩ら、大きな体と超一流の能力を持った人間も集まった。全日本ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・ファンクスら個性豊かなスターが続々生まれ、新日本の猪木はボクシング世界王者ムハマド・アリとの異種格闘技戦で大きな注目を浴びた。

80年代に入ると、アニメの世界から出てきたタイガーマスクが四次元殺法でこどもたちの心をつかみ、長州と藤波が「名勝負数え唄」を繰り広げた。

89年に新日本は初の東京ドーム興行を行い、獣神サンダー・ライガーも誕生。全日本は鶴田、天龍の「鶴龍対決」で人気を集め、その流れは四天王プロレスにつながっていった。

新日本、全日本の2大メジャー団体ができた72年に生まれた真壁は、テレビの向こうのプロレスラーに憧れて育った。先輩たちの姿はそばで見るには、まぶしすぎた。

「反骨心はあったけど自分がトップに立つイメージは正直、あん時は描けてなかったよ。若手の時は、よくセコンドに入った。大先輩たちの試合を、近くでまじまじと見るわけだ。試合中の観客の盛り上がりを感じながら、『俺このリングにあがって、ベルトとれんのかな』と思ってた。俺は、毎日ボロ雑巾のようにしごかれてる。だから、現実味がなかったんだよね。ギャップがありすぎた」

新日本は“闘魂三銃士”が活躍し、97年には東京、大阪、ナゴヤ、福岡での初4大ドームツアーも成功。一方、全日本も四天王プロレスの真っ盛り。危険をかえりみない激しい試合で、日本武道館を毎回満員にしていた。そんなプロレスブームの98年に猪木が現役引退する。東京ドームに7万人を集めた猪木の引退試合を、デビュー2年目だった真壁は見ていない。膝の半月板の手術が重なり、動けない状態だった。

「あそこまで憧れた人の引退試合なのに、俺、何やってんだろな、とベッドでうなだれてたよ。猪木さんが新日本からいなくなったら、何をするんだろう。新日本に関係なくなるのか、後輩たちを教育するのか…。いろいろ考えたけど、下っ端の俺は考えを知る立場じゃないから。ただ、どうなんのかなと思ってた」

真壁らの予想を超え、猪木は当時ブームになりつつあった総合格闘技に肩入れしていった。そして、その格闘技の存在によって、プロレスというジャンルが大きく揺らぎ始めた。