「タイガーマスク」佐山サトル(63)は、プロレスだけでなく、格闘技にも力を注いできた。23日にデビュー40周年を迎える初代タイガーマスクの記念大会「ストロングスタイルプロレス」(22日、後楽園ホール)に向け、佐山が日刊スポーツの取材に応じた。「タイガーマスクの40年」と題した連載最終回(全3回)は、格闘技の世界へ。

衝撃的なデビューから2年がたった。3年目に突入した83年も、タイガーマスク人気は衰える気配はなかった。試合をこなし、イベントに顔を出し、殺到するマスコミ取材に対応する…。プロレスラーとして誰もが羨望(せんぼう)する地位を築いた。リング上のパフォーマンスも円熟味を増していた。しかし、25歳になった佐山は、そんな現状に物足りなさを感じていた。

78年5月のデビュー戦後間もなく、新日本に新設するマーシャル・アーツ部門の「第1号選手にする」と指名された。以来ずっと、佐山は格闘家になるための練習を続けていた。実は「18歳くらいから格闘技を取り入れようと考えていた」という。メキシコ、英国での海外修行中も、自室に自腹で購入したサンドバッグを備え付けた。タイガーマスクになってからも、毎朝の走り込みを欠かさず、イメージトレーニングも続けていた。

83年6月12日、タイガーマスクは突然赤いパンタロンを履いてリングに登場した。メキシコシティーでのフィッシュマンとのWWF世界ジュニアヘビー級王座決定戦で、マーシャル・アーツで着用するコスチュームをまとった。得意の4次元殺法も駆使したが、それ以上に蹴り技で相手を圧倒した。負傷により1度手放した王座を奪回するとともに、格闘技への情熱をリングの上でアピールした。

心の中に閉じ込めていた欲求をリング上で解放したことで、佐山は腹の底から沸き上がる格闘技への情熱を抑えることができなくなった。フィッシュマン戦から国内シリーズが開幕する同7月1日までの半月間で引退の意志を固めた。同シリーズでもパンタロンをはいて戦い続けた。ファイトスタイルも格闘家に近くなっていた。佐山の心は完全にタイガーマスクから離れていた。

83年8月、新日本に契約解除を告げ、引退を表明した。84年2月、タイガージムを設立して新しい形を模索。ジム開設から2年後の86年6月、ついに理想とする格闘技「シューティング(現・修斗)」の記念すべき第1回大会を開催した。グローブやリングなど、考えたルールは60項目にもなったという。ジムでは技術を教え、選手を育てた。「プロレスラーは、寝技はやっているが、打撃も含め、総合的なものをやっていこうと新しい競技を作った」。

プロレス界で革命を起こした男が、格闘技というリングで先駆者になった。「プロレスと格闘技は融合しない」という理論は今も変わりはない。「格闘技の世界では1回負けることは許されない。選手は命を懸けて勝つための練習をやって、リングに上がっている」。プロレスと格闘技をへてたどり着いたのは「プロレス最強」。プロレスラーは格闘家としての強さを備えた上で、ファンを喜ばせるテクニックを身につけていなければならないという。

22日の大会で、リングに上がる愛弟子のスーパータイガーは、格闘家からプロレスに転向した。自身の精神論に一番近いと考える。「まだプロレスに慣れていないところがある。体で表現できていないというか。そこがしっかりしてくれば、分かってくると思う」と愛弟子の成長に期待する。

いずれは礼儀を重んじ相撲、柔道のような「道」を作りたいと考えている。「シューティングも武道にしたくて修斗という(漢字の)名前にした」。天覧試合をやろうと計画したこともあった。技術は教えられても、精神的な部分は現在も模索中だ。自身もまだその境地にたどり着いてないという。「精神を統一して、不動心で試合に臨む。そのためにはメンタル、人格、平静心を鍛えていかないと。できていないファイターも多い。弟子たちには話したりしているが、なかなか伝えきれていない」。

プロレスを守り、格闘技の選手を育てる。2つの魂を持ちながら佐山はこれからも「道」を追及し続ける。(おわり)【松熊洋介】