元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。

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世界で最も有名なプロレスラーになったハルク・ホーガン(米国)は、アントニオ猪木さんとの出会いがなければ、平凡な怪力レスラーに終わっていたかもしれない。

1977年にテリー・ブルドーのリングネームでデビューした身長2メートルの怪力レスラーは、79年4月にハルク・ホーガンという新たなリングネームで、米ニューヨークの大舞台「マジソン・スクエア・ガーデン」で初めて試合をした。ボディービルで鍛え抜いた並外れたパワーを際立たせるため、当時テレビで人気のあった「超人ハルク」にあやかったものだ。

この試合を猪木さんら観戦に来ていた新日本プロレスの幹部たちが見ていた。米国で活躍していたヒロ・マツダ氏からコーチを受けたレスラーということもあり、新日本の来日外国人選手として、まだ当時は無名だったホーガンに白羽の矢が立った。レスリング技術は未熟で、ただパワーだけが持ち味の粗削りのレスラーだった。

新日本のタイガー服部レフェリーは、93年の日刊スポーツの取材に当時のホーガンをこう振り返っている。「ちょうど長州力とスタン・ハンセンを足したような感じだった」。繰り出す技はすべて力任せ。だが、レスラーとしての素質はあったという。

80年に新日本に初来日した。以後、常連外国人選手になる。新日本のプロレスは、米国のようなショー的要素の濃いものではなく、しっかりとしたレスリング技術を基盤にしたストロングスタイルを取っている。レスリングができなければやっていけないので、ホーガンは試合前のリング上での練習に積極的に取り組んだ。毎日、リングでスパーリングをこなした。自分の試合のビデオを見て、研究する熱心さも持っていた。「新日本での体験はオレのレスラーとしての基礎をつくった」と言う後のホーガンの言葉は真実だ。

次第に日本での人気も出てきた。だが、当時の新日本の外国人レスラーのトップにはスタン・ハンセンがいた。同じパワー派のハンセンをしのぐまでにはなかなかいかない。ハンセンにあって、ホーガンになかったものは、必殺技だ。ウエスタンラリアットという一撃必殺の技を持ったハンセンは、必殺技の名前とともにスターにのし上がった。ホーガンはパワーではハンセンに負けない自信があったが、それではインパクトに欠ける。オリジナル・ホールドをつくる必要があった。

来日時が一緒になると、ホーガンはハンセンの試合をリングサイドで熱心に見て吸収した。ラリアットは相手の首に決める技だ。その応用で、顔面にたたき付けたらどうか。腕を「く」の字に曲げ、ひじから上を相手の顔にヒットさせる。今もホーガンの必殺技となる「アックスボンバー」は、こうして生まれた。日本での貴重な経験がホーガンのレスリング技術を飛躍的にレベルアップさせ、後に代名詞となる必殺技の誕生につながった。

83年6月2日、東京・蔵前国技館で行われた第1回IWGP決勝リーグ戦の決勝戦でホーガンは、その必殺のアックスボンバーで猪木さんをリング下にたたき落として失神KOした。06年の日刊スポーツの取材に猪木さんは「ホーガンもあの一発で世界に名前が広がった。それまではキン肉マンの物まねだったから。彼もオレに感謝してくれた」と振り返っていた。