元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。思い出の名勝負を振り返る。

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【アントニオ猪木・思い出の名勝負・ベスト30】

<1>タイガー・ジェット・シン戦(74年6月26日、大阪府立体育会館)猪木は6日前にシンの火炎攻撃で左目をやけどしていた。同じ3本勝負のこの試合もシンの鉄柱攻撃などで1本目は両者リングアウト。大流血した猪木は2本目に怒りが爆発。執拗(しつよう)なショルダー・アームブリーカーでシンの右腕を折った。最後は外国勢総出で試合を止め、猪木のTKO勝ちとなった。

<2>ストロング小林戦(74年3月19日、蔵前国技館)国際プロレスのエースで、IWA王者だった小林との一騎打ちは「昭和の巌流島の決闘」と注目され会場は満員札止め。試合は団体のプライドをかけたエース同士の息詰まる攻防の末、猪木が原爆固めで勝利。第1回プロレス大賞の年間最高試合に選出された。

<3>ドリー・ファンク・ジュニア戦(69年12月2日、大阪府立体育会館)猪木が当時世界最  高峰と呼ばれたNWA王者ドリー・ファンク・ジュニアに初挑戦。試合巧者の王者に真っ向勝負を挑み、3本勝負だったが1本も許さず、60分フルタイムドロー。王座奪取はならなかったが、猪木の高い潜在能力を世界に示した一戦だった。

<4>ウィリアム・ルスカ戦(76年2月6日、日本武道館)72年ミュンヘン五輪の柔道で重量級と無差別級を制したルスカと、初の異種格闘技戦に臨んだ。ルスカの投げや絞めなどの柔道技に、猪木はエルボーなどの打撃技やコブラツイストで応戦。最後はバックドロップ3連発で金メダリストをマットに沈めた。

<5>アンドレ・ザ・ジャイアント戦(76年10月7日、蔵前国技館)「格闘技世界一決定戦」と銘打って行われた一戦。開始から2メートル23、230キロの大巨人のパワーに圧倒されたが、リバース・スープレックスでアンドレを投げるなど応戦。最後はパンチ攻撃と、鉄柱への頭付きの誤爆を誘うなど、アンドレが額から大流血したため猪木のTKO勝ちとなった。

<6>ザ・モンスターマン戦(77年8月2日、日本武道館)全米プロ空手の世界ヘビー級王者と3分10回ルールで対戦。多彩なパンチとキックに苦められたが、ナックルパンチで逆襲すると体ごと持ち上げて頭からリングにたたきつけ、とどめのギロチンドロップを浴びせて失神KO勝ち。猪木の異種格闘技戦の中でも屈指の名勝負と言われている。

<7>スタン・ハンセン戦(80年9月25日、広島県立体育館)猪木はハンセンと何度も名勝負を繰り広げてきた。猪木のNWFヘビー級王座をかけたこの試合は10分すぎ、ハンセンが必殺技のウエスタンラリアットに合わせて、ジャンプして左腕でラリアットをたたきつけた。猪木が「逆ラリアット」として語り継がれる一戦になった。

<8>ビル・ロビンソン戦(75年12月11日、蔵前国技館)“人間風車”の異名を取ったロビンソンとのテクニシャン同士の一戦は“夢の対決”として話題になった。猪木は3本勝負の1本目は逆さ抑え込みで奪われたが、2本目に卍(まんじ)固めを決めたところで時間切れ引き分けとなった。この試合を猪木のベストファイトに挙げる声が多い。

<9>ウィリー・ウィリアムス戦(80年2月27日、日本武道館)極真空手の強豪で“熊殺し”の異名を取ったウィリアムスとの一戦は試合前から殺気立っていた。4回に猪木がウィリアムスに腕ひしぎ逆十字固めを決めた状態で両者場外に転落すると、両陣営が乱入して大混乱となり、猪木は肋骨(ろっこつ)、ウィリアムスは左ひじを負傷して、両者ドクターストップの裁定が下された。

<10>ハルク・ホーガン戦(83年6月2日、蔵前国技館)第1回IWGP決勝戦で猪木はパワーで上回るホーガンに圧倒された。バックドロップで後頭部を痛打し、場外で背後からホーガンの必殺アックスボンバーを浴びて鉄柱に激突。最後はリングに入ろうとしたところを再びアックスボンバーを直撃され場外に転落。失神したまま起き上がれず、病院送りとなった。

<11>ムハマド・アリ戦(76年6月26日、日本武道館)「世紀の一戦」と呼ばれたプロボクシング世界ヘビー級王者との異種格闘技戦。猪木は多くのプロレス技が禁じられた不利なルールの中、リングに転がって蹴りを繰り出し続けたが、最後までかみ合わず、ヤマ場もなく15回引き分けに終わった。「世紀の茶番劇」と酷評された。

<12>カール・ゴッチ戦(72年10月4日、蔵前国技館)3月の新日本旗揚げ戦でゴッチに敗れた猪木は、この試合でもパワーと老かいな技に苦戦するが、場外で原爆固めを浴びた直後にゴッチより一瞬早くリングに戻り、リングアウト勝ちで恩師でもあるゴッチから初勝利を収めた。この試合は「実力世界一決定戦」と銘打って行われた。

<13>ボブ・バックランド戦(79年11月30日、徳島市体育館)WWFヘビー級王者バックランドへの3度目の挑戦。猪木は18分すぎにバックドロップからの体固めで勝利を収め、日本人初のWWF王座奪取に成功した。しかし、猪木は6日後の再戦がタイガー・ジェット・シンの乱入でノーコンテストになったことに納得いかず、王座を返上した。

<14>ブルーザー・ブロディ戦(85年4月18日、両国国技館)全日本から移籍したブロディとの一騎打ちに猪木は気合十分だった。延髄斬りや卍固め、バックドロップと得意技を連発。ブロディのパワフルな攻撃を真っ向から受け止めた。最後は両者リングアウトに終わったが、猪木の底力をあらためて示した一戦だった。

<15>藤波辰巳戦(88年8月8日、横浜文化体育館)IWGPヘビー級王者の藤波に猪木が挑戦した。45歳の猪木は「負けたら引退」とも言われていた。試合は目まぐるしいグラウンドの攻防が続き、ストロングスタイルの原点のような試合に。結果は60分時間切れの引き分け。師匠超えはならなかったがこの一戦は藤波にとってもベストファイトの一つである。

<16>ジョニー・パワーズ戦(73年12月10日、東京体育館)米ニューヨークの新興団体NWF王者パワーズを招へいして挑戦。3本勝負の1本目はコブラツイストで先取。2本目は王者の必殺技8の字固めに屈したが、3本目に卍固めで勝利。新日本旗揚げ後、初めて手にした世界タイトルは猪木の代名詞となる。

<17>クリス・マルコフ戦(69年5月16日、東京都体育館)第11回ワールドリーグ戦の決勝トーナメントで対戦。マルコフのラフファイトに流血の苦戦を強いられたが、最後は卍固めで逆転勝ち。もう1試合は馬場とボボ・ブラジルが引き分けていたため、猪木の初優勝が決定。ライバル馬場に肩を並べた。

<18>アクラム・ペールワン戦(76年12月12日、パキスタン・カラチナショナルスタジアム)アリ戦で有名になった猪木は、パキスタン英雄ペールワンからの挑戦状に応じた。3回にチキンウイングアームロックを決めたが相手がギブアップしなかったため、そのまま腕を折り、最後はレフェリーストップ勝ちとなった。

<19>長州力戦(84年8月2日、蔵前国技館)維新軍のリーダーに君臨する長州との一騎打ちは、新旧エースの意地がぶつかった名勝負になった。猪木の原爆固め、長州のサソリ固めと大技も応酬。最後は猪木がリキラリアットをかわしてグラウンドコブラで30分近く続いた激闘に決着をつけた。

<20>マサ斎藤戦(87年10月4日、山口県・巌流島特設リング)観客、レフェリー不在で完全決着をかけた一戦。リング上での技の応酬から、いつしか戦いの場はリング外の芝生に移った。すっかり日も落ち、かがり火の中で戦いは続き、最後は猪木が裸絞めで斎藤を絞め落とし決着。開始のゴングから2時間5分14秒が経過していた。

<21>坂口征二戦(74年4月26日、広島県立体育館)新日本の“黄金コンビ”の初のシングル対決。新日本移籍前は日本プロレスのエースだった坂口との一戦は互いのプライドをかけた好試合に。坂口がアトミックドロップなど大技を繰り出せば、猪木は華麗なレスリングテクニックで応戦。30分で勝負がつかなかった。

<22>グレート・ムタ戦(94年5月1日、福岡ドーム)猪木は開始からムタの毒霧や場外戦に巻き込まれて大苦戦した。鉄柱攻撃で額からも流血したが、側転エルボーを間一髪かわして、チョークスリーパーからフォールを奪って逆転勝ち。全盛期は過ぎていたとはいえ、キャリアと勝負勘で勝利をもぎ取った。

<23>ルー・テーズ戦(75年10月9日、蔵前国技館)力道山とも激闘を演じた元NWA王者を迎えてのNWF王座防衛戦。若手時代には5分足らずで完敗していた。開始早々、テーズのバックドロップを浴びるなど59歳の元王者の意外なスピードと技術に苦戦したが、最後はサイドからの岩石落とし固めで勝利を収めた。

<24>ローラン・ボック戦(78年11月26日、西ドイツ・シュツットガルト)欧州遠征でメキシコ五輪レスリング代表の肩書を持つ未知の強豪ボックに、猪木はスープレックスで投げられ続けた。突破口も見いだせずに0-3の判定負け。試合は「シュツットガルトの惨劇」と言われ、今もボックは猪木の対戦相手の中で最強という声が根強い。

<25>ショータ・チョチョシビリ戦(89年4月24日、東京ドーム)初の東京ドーム興行のメインで柔道五輪金メダリストと、ロープのない円形のリングで対戦。バックドロップをはじめ、猪木の技は次々と受け流され、5回に裏投げの連発を食ってKO負け。猪木が異種格闘技戦で喫した初めての黒星だった。

<26>天龍源一郎戦(94年1月4日、東京ドーム)猪木がチョークスリーパーで天龍を失神させるなどすごみを見せつけた。最後は天龍のパワーボムでフォールを奪われたが、勝敗を抜きにした名勝負になった。この勝利で天龍は馬場と猪木の2人からフォールを奪った唯一の日本人レスラーとして名を挙げた。

<27>大木金太郎戦(74年10月10日、蔵前国技館)猪木のデビュー戦の対戦相手で1度も勝てなかった大木をNWF王座の挑戦者に迎えた。大木の1本足頭突きを何度も浴びて流血した猪木は、ナックルパートをカウンターで額に打ち込んで反撃。最後はバックドロップで仕留めた。

<28>ドン・フライ戦(98年4月4日、東京ドーム)猪木の引退試合。総合格闘家のフライをグラウンド技、スリーパーなどプロレス技で圧倒。さらに延髄斬り、ナックルパートで追い込み、得意のコブラツイストで捕まえると、そのままグランドコブラに移行して、最後の舞台を勝利で締めくくった。

<29>ヒロ・マツダ戦(78年12月16日、蔵前国技館)新日本所属選手とフリー選手が出場したプレ日本選手権の決勝戦で対戦。海外を主戦場とするフリー選手のリーダーのマツダは、猪木と同じストロングスタイルが身上。コブラツイストの掛け合いなど玄人受けする試合になったが、猪木が卍(固めで決着をつけた。

<30>前田明(名前は当時)戦(83年5月27日、高松市民文化センター)後にUWFでカリスマとなる前田との唯一の一騎打ちは、IWGP決勝リーグで実現。欧州から凱旋(がいせん)帰国した若き前田がキックや三角絞め、原爆固めと華麗な技を繰り出すと、猪木も得意の弓矢固めなどで応戦。最後は卍固めでペースを握った猪木が、延髄斬りで仕留めた。

番外編

◆馬場、猪木-ビル・ワット、ターザン・タイラー戦(67年10月31日、大阪府立体育会館)ジャイアント馬場とのタッグでインターナショナル・タッグ王座に挑戦。2-1で勝利を収めて王座奪取に成功した。日本プロレスで一時代を築いた馬場と猪木のタッグ“BI砲”の初戴冠試合。71年12月までコンビは絶大な人気を博した。

◆チャック・ウェップナー戦(77年10月25日、日本武道館)アリにも挑戦した経験のある実力派白人ボクサーとの異種格闘技戦。グローブを着用した猪木はウェップナーの強烈なパンチを浴びてダウンしたが、アリ戦とは違って立って勝負を挑み、6回に延髄斬りからチャンスをつかみ、逆エビ固めで勝利を収めた。

◆グレート・アントニオ戦(77年12月8日、蔵前国技館)かつてバスを引っ張って動かす怪力パフォーマンスで注目され、力道山とも対戦したアントニオは、来日して再びバスを引っ張るパフォーマンスで怪力健在をアピールしたが、試合は顔面にキックを連発して流血させた猪木がわずか3分49秒でKO勝ちした。

◆上田馬之助戦(78年2月8日、日本武道館)リングの周囲に4万本の五寸くぎが突き出た板を敷き詰めて対戦した史上初の『くぎ板デスマッチ』。上田が猪木の延髄斬りで、猪木が上田のストンピングでリング下へ落下寸前のピンチはあったが大事には至らず。最後は猪木がアームブリーカーを連発。上田のセコンドのシンがタオルを投入。

◆馬場、猪木-タイガー・ジェット・シン、アブドラ・ザ・ブッチャー(79年8月26日、日本武道館)オールスター戦で新日本の猪木と全日本の馬場が8年ぶりにタッグを結成。両団体のトップ外国人とタッグで対戦し、猪木がシンからフォールを奪った。試合後「次でリングで会うときは戦う時だ」と対戦アピールした猪木に、馬場も「よし、やろう」と応じた。

◆ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇戦(82年11月4日、蔵前国技館)猪木が1人で崩壊した国際プロレスの3選手を相手にした。寺西からギブアップ、浜口からフォールを奪ったが、最後に残った木村のパワーに圧倒され、片足をロープにかけたまま場外に出た上体を起こせず、リングアウト負けを喫した。

◆ビッグバン・ベイダー戦(87年12月27日、両国国技館)猪木は当初予定された長州力との一騎打ちに反則勝ちを収めた後、来場して対戦を迫ったベイダーの要求を受けたが、パワーで勝るベイダーに圧倒されて3分足らずでフォール負けした。試合後、想定外の事態とお粗末な内容に激怒したファンが、国技館の升席やイスを破壊するなど暴動が起きた。