政治家・アントニオ猪木さんのライフワークが、スポーツを通じた外交だった。1989年(平元)にスポーツ平和党を立ち上げて参院選に出馬。比例代表で初当選しプロレスラーとして初の国会議員になると、翌90年12月にはクウェートに侵攻したイラクに単身、乗り込み邦人の人質解放を成し遂げた。中でも、特に力を注いだのが94年9月から18年9月まで33回も訪問した北朝鮮だった。その背景には、同国にルーツを持つ師匠・力道山の存在があった。

17年9月11日に32回目の訪朝から帰国したアントニオ猪木さんは会見を開いた。報道陣の質問に丁寧に答えた中、少しだけ声が大きくなった。

「北朝鮮の片棒を担いでいるんじゃないか? と言う人もいるかも知れませんが、そうじゃない」

その言葉の真意を知りたく、顔を合わせる度に質問を繰り返した。すると猪木さんは、そもそも政治の道に進んだきっかけが、力道山だったと明かした。

「力道山は引退したら参院選に出るはずだった。政界のドン(自民党)大野伴睦さんらが裏で支えていたが亡くなった。(その話を)小耳に挟んでいたことで、後に45歳でギリギリかと思って(政界に進んだ)」

政治家になってから、力道山が決して語ることのなかったルーツを知り、北朝鮮に関心を持ったことが全ての始まりだった。

「力道山が朝鮮民族だと知らなかったし、気にしたこともなかった。政治の世界に出たら、在日朝鮮人の人々が、いろいろ資料を送ってきて『力道山物語』も読んだ。力道山は東京オリンピック(五輪)前年の63年に亡くなったんですが、3人兄弟の長男…お兄さんは五輪選手団の団長で、もし北朝鮮が出場していたら来たはずだった。力道山が向こうで作った娘さんが万景峰号で新潟に来て、会った話も後で知った。娘さんは、わが同胞が頑張っているという話が金日成に伝わり、大学まで行かせてもらい体育協会の会長に進まれたそうで。訪朝の原点は師匠・力道山です」

95年4月には平壌で「平和の祭典」を開催も、同年7月の参院選で落選。その後も訪朝を続け、13年7月の参院選に当選し18年ぶりに国政に復帰。同11月には議院運営委員会理事会が不許可としたにもかかわらず訪朝し、登院停止30日の懲罰を受けた。「力道山の思いを伝えたい」一心だった。

帰国会見では核開発に関する情報を語るなど、北朝鮮との踏み込んだ関係性をうかがわせた。16年9月、朝鮮労働党ナンバー2の李洙■(リ・スヨン、※■は土へんに庸)副委員長から5回目の核実験は「日本に向けてのものではなく米国に国威を示すため」と説明されたと明かした。

17年9月11日の会見当時、北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返し、6回目の核実験を行い大陸間弾道ミサイル(ICBM)用水爆の実験成功も発表していた。猪木さんは、北朝鮮側が水爆について「もう出来ている」「米国が圧力をかけ続けるなら技術を開発して(ミサイルは)強固なものになる」と語ったと明かし「すごい大きなものになっている」と強調。その言葉の4日後の同15日には、北朝鮮から弾道ミサイルが発射され日本上空を通過した。

4日に、その時以来5年ぶりに北朝鮮から発射された弾道ミサイルが日本上空を通過した。猪木さんが生きていたら、何を思っただろう…。18年9月の33回目の訪朝後、体調が悪化し翌19年10月に政界を引退。その後、口惜しそうに語った言葉を、繰り返すのではないか?

「何で、もっと俺を北朝鮮に行かせる政治家がいなかったのか? せっかく、話し合いの環境作りをしようと足を運び、これだけの関係を作ったのに。人の交流が大事なのに、断ってしまっている。本音の部分は、話し合いをしないと、しょうがないだろう」

失った猪木さんの大きさを感じずにはいられない。【村上幸将】