第2次大戦時の英首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965年)は「人間が歴史から学んだのは、歴史からは何も学んでいないということだ」という皮肉めいた言葉を残している。

 多くの歴史書に学び、回顧録「第二次世界大戦」がノーベル文学賞を受賞したチャーチルが、「何も学ばない」周囲へ向けた警鐘のひと言だと思っていた。が、英映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」(3月30日公開)を見ると、むしろこの言葉は身をもって感じた心の声ではなかったのか、と思えてきた。

 ヒトラーに立ち向かった毅然(きぜん)としたイメージとは裏腹に、「生身のチャーチル」は孤立し、悩み、庶民の声に救われる。ヒトラーの猛威を前に、自身の過去の失敗が悪夢のように頭をもたげ、議会の多数を占めるヒトラー融和派に折れそうになる。知識や経験則は役に立たない。苦境の中で「歴史からは何も学べない」ことを思い知るのだ。

 急転直下の首相就任からの19日間にスポットを当てたこの作品にはそんな新鮮な驚きがあり、ゲイリー・オールドマンの成り切りぶりにも驚かされる。

 チャーチルの持ち味は心をつかむ演説の力であり、最後はこの最大の武器で議会と世論を抗戦に向けていくのだが、この映画の重心はそこに至る内心の葛藤の方に置かれている。

 その足跡を振り返ると、最初は保守党から議員当選。が、自由党に転身してからが長く、なんと20年。自由党内閣で海軍相として決定的な失策をおかし、保守党に戻ってからも蔵相として失敗。それまでの実績は決してほめられたものではない。足場は脆弱(ぜいじゃく)な上に、ひょうたんから駒の戦時内閣首相就任時には、保守党内は持論と正反対のヒトラー融和派が多数を占めていた。

 全6巻の自著「第二次世界大戦」の中にも、抗戦を決断するまでの自らの内心はつづっていない。抗戦か融和かに揺れる悩みは明かすのをはばかるほど深刻だったのだろう。

 ほとんどの場面で頭を30度ほど前にかしげたオールドマンの苦悩の演技が深い。2度のアカデミー賞ノミネートで知られたメーク界の第一人者、辻一弘氏は5年前に彫刻家に転身していたのだが、オールドマンのたっての願いで今作の特殊メークを引き受けた。隙のないチャーチル像にはそんな思いも詰まっている。

 妻クレメンティン役は「イングリッシュ・ペイシェント」(96年)のクリスティン・スコット・トーマス。秘書エリザベス役に「ベイビー・ドライバー」(17年)のリリー・ジェームス。近くにいた2人の女性のほどよいフォローを、そろって空気のように当たり前に見せている。これぞ「助演」の好演だ。

 チャーチルの決断のきっかけになるのが地下鉄のエピソード。議場に遅刻しそうになった彼がせっぱ詰まって乗った地下鉄で居合わせた市民たちの話に「ヒトラー許すまじ」の決意を実感する。「博士と彼女のセオリー」(14年)の脚本を手掛けたアンソニー・マクカーテン氏と「路上のソリスト」(09年)ジョー・ライト監督が付け加えたフィクションだが、世論に敏感なチャーチルの一面を映す効果的なシーンになっている。

 徹底抗戦の決断がなかったなら、その後の世界はどうなったのか? 歴史の「紙一重」をじわっと心に残す1本だ。【相原斎】

「ウィンストン・チャーチル」の1場面 (C)2017 Focus Features LLC. All Rights Reserved(ビターズエンド提供)
「ウィンストン・チャーチル」の1場面 (C)2017 Focus Features LLC. All Rights Reserved(ビターズエンド提供)