名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」の第15回は、BOROのヒット曲「大阪で生まれた女」です。大阪ソングの代表曲の1つとして親しまれています。ある若者の何げないひと言がきっかけとなって誕生しました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 

78年夏、大阪・北新地。当時23歳だったBOROは、スナック「プレーイングフォー」で、ギターを手に弾き語りをしていた。客の歌の伴奏が主で、合間に自作の曲を披露する毎日だった。他にも4軒を掛け持ちして、生計の足しにしながら、いつか来るだろうチャンスを待っていた。

ある夜、常連の若いカップルが、曲目の本をめくりながらつぶやいた。「僕らが歌える大阪の歌って少ないよね」。「月の法善寺横丁」「王将」など、大阪を舞台にした演歌はあっても、若い世代の歌は、当時あまりなかった。BOROは言った。「なら作ってきましょう」と気軽に引き受けた。

すぐに“大阪で生まれた女やさかい…”のフレーズが口をついた。その後、2週間悩んで、歌のストーリーがひらめいた。

高校生カップルの卒業記念ダンスパーティーの帰り道。男は、歌手を目指して上京を決意。女は、迷った末についていく。しかし、東京の生活に疲れ傷ついた女は、大阪へ戻り、やがて別の男性と結婚する。男はスターへの道を歩むが、心は晴れなかった、というものだった。

「すごい歌になる」と確信した。1時間で一気に書き上げた。完成した「大阪で生まれた女」は、何と18番まで歌詞のある35分間に及ぶ大作になっていた。結局、世に出た「大阪で生まれた女」は、その4番と6番だった。

歌詞のモチーフは、自分が3年前に経験した失恋だった。プロ歌手を目指して上京したが、交際していた彼女は大阪に残り、そして2年後、他の男性と恋に落ちた。BOROは「歌と違うのは、僕自身も大阪に戻ったこと。それと、実は歌を作った頃、ディスコにも行ったことなかった(笑い)。フィクションが多いけど、当時のほろ苦い体験が歌を生み出すエネルギーになったと思う」と語る。

BOROが「作ってきましょう」と約束した客も、店のホステスも、新しい大阪の、しかも大阪弁の歌をとても喜んだ。そんな時、偶然にも店に内田裕也(当時38)が訪れた。酒も飲まずに「大阪で生まれた女」に聞き入った内田は「デモテープを送ってくれ」と告げた。内田との出会いと、そのデモテープが、BOROを再び東京へと向かわせるきっかけとなった。

大阪を拠点にブルースを歌い続けるBOROは「ウイットに富んでいて、言葉が楽しくてかわいい大阪生まれの女性は、僕の理想でした。でも、最近は女性が男っぽくなったせいか、きれいな大阪弁をしゃべる人が少なくなった」と寂しそうに話す。曲の大ヒット直後の80年、多くの関西の芸人が東京進出を果たす漫才ブームが巻き起こった。「大阪で生まれた女」は、大阪弁が全国に親しまれる伏線にもなっていた。【特別取材班】


※この記事は97年11月26日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。