山崎貴監督(59)の人生にはゴジラ生誕70周年記念映画「ゴジラ-1.0」を撮るレールが敷かれていたのかも知れない。少年のころ、地元の長野・松本市の銭湯で「三大怪獣 地球最大の決戦」のポスターに胸躍らせ、77年「スター・ウォーズ」など米国のSF大作を見てVFXを知り、映画監督を夢見て中学3年で初めて映画を撮った。「ゴジラ-1.0」北米公開前にハリウッドでプレミアを行った今の思いを聞いた。【取材・村上幸将】

★自信持てる技術の元に

「東宝、『ゴジラ』作らせてくれないかな?」。この言葉を最初に聞いたのは14年末、「永遠の0」で、日刊スポーツ映画大賞の監督賞と作品賞を受賞した時だった。

「作りたかったですよ(笑い)(05年の)「ALWAYS 三丁目の夕日」の頃から『次、どうですか?』と言われていましたけれど全部、自信の持てる技術の元に作りたかった。(技術が)そろう状態を、実験しながら待っていた」

54年11月3日公開の「ゴジラ」(本多猪四郎監督)からシリーズを製作する東宝は、04年「ゴジラ FINAL WARS」(北村龍平監督)製作の際、着ぐるみと当時のCG技術では新作を作るのは困難だとして一区切りを表明。16年「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督)まで12年、国産ゴジラ映画は製作されなかった。その間、山崎監督は07年「ALWAYS続・三丁目の夕日」の冒頭で、主人公が執筆する架空の物語として東京に襲来したゴジラをフルCGで描いたが限界を感じた。

「(ゴジラが登場する)2分が、ものすごい作業量で。(スタッフの半分が半年間、製作と)リソースの割かれ方が大変すぎた。(ゴジラ映画)本編を製作するのは無理だなと思った」

★「VFXだから寄れた」

それから16年を経て作り上げた「ゴジラ-1.0」では、大きく口を開けたゴジラの顔がスクリーン全面に映し出される。シリーズ70年、30作の歴史の中でも顔の大きさは出色だろう。ミニチュアや特殊造形などを用いて撮影するSFX(特殊効果)では不可能だった映像表現ができたのは、実写映像にCGなどで製作した映像を加えるVFX(視覚効果)の技術が向上したからだと強調した。

「着ぐるみではリアルタイムで撮る以上、あそこまで寄ると粗も出てくるし、どうしても小さいものだとバレる、フォーカスの問題が出てくる。着ぐるみと同じように動けるデカいもの(造形物)を作ることが1つの解決策だと思ったんですけど、SFXで寄ったゴジラを撮るのは本当に難しい。VFXだから寄れた」

では、スクリーン全体まで及ぶサイズのゴジラの顔をどう作ったのだろうか?

「数億個のポリゴンを使って作った。デジタルはシーン的な限界を考えなければ情報量はいくらでも盛り込める。ただ、とてつもなくディティールが盛り込まれデータがすごく重たい」

★初めて戦中戦後を描く

もう1つの大きな軸が自ら脚本を手がけた物語だ。「ゴジラ」は、初代が公開される8カ月前の54年3月1日に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福竜丸事件に着想して作られた。各作品は戦後10年以降か製作年と同時代に設定されてきたが初めて戦中、戦後を描いた。

「時期的にも武器がないから面白いですよね、と出したら結構ざわついた。初代より前に持っていくって、タブーだったのかと逆にビックリした。能天気に(企画を)出している。そういうことに対して鈍感なところがある。良くないと思うんですよ(苦笑い)」

神木隆之介(30)演じる敷島浩一は零戦の操縦士だったが、機体に不備があると偽り特攻を回避して生き残る。悔恨の念を抱く中、他人に赤ん坊を託され身寄りもない、浜辺美波(23)演じる大石典子が自宅に押しかけ、血縁がないながらも一緒に生きていく。

「ひきょうな手を使い自ら生き残った人です。根がいい人ほど罪の意識を持って毎晩、悪夢に悩まされる。典子と出会い、ようやく生き直そうとした時にゴジラにもう1回、どん底にたたき落とされる…そういう映画を作りたかった。僕の中でゴジラは戦争、核のメタファー(隠喩)なので」

子どもの頃に漫画「紫電改のタカ」に衝撃を受け、特攻に関心を持った。「永遠の0」では岡田准一(42)演じる、生き抜くことに執着した零戦操縦士の宮部久蔵が最後に特攻を選ぶが、理由は「受け手に委ねる」と描かなかった。敷島でその先を描いたのでは?

「『永遠の0』では自分の中に消化しきれていないものがあって。特攻は調べれば調べるほど、どんどん分からなくなり正体がつかめなくなる。「ゴジラ-1.0」を見て『永遠の0』の回答だと言う人もいるんですけど、回答でも何でもなくて、こういう思いの人もいただろうという、また1つの側面を描いた感じ」

「文芸作品にしたかった」と語るようにゴジラと戦う人間の愛の物語でもあるが、ゴジラの攻撃を受けた典子と敷島の、その後の描き方に自らダメ出しした。

「典子の首の所に、ちょっと見えていたじゃないですか? 何かは明言しませんけど…そのまま幸せになるかは分からない。脚本を書いている時、映画の品格としては、ない方がいいのかも知れないと思ったけれど(2人を)会わせてあげたかった。僕の映画製作者としての、甘さです」

★2つの夢を同時に叶え

ゴジラとの出会いは地元の風呂屋に貼っていた「三大怪獣 地球最大の決戦」のポスターを見て、親にせがみ見に行ったことだった。そうして胸躍らせた思いを結実させた「ゴジラ-1.0」は、北米で12月1日から1500スクリーン超で公開が決定。それに先立ち10日(日本時間11日)にハリウッドで行われたプレミアでは、観客はゴジラに熱狂し、物語と日本人俳優の芝居に心震わせ「シリーズ最高」との声が相次いだ。

「米国のお客さんに自分の作品を見てもらいたいというのが、ずっと夢だった。しかも、ゴジラで…2つの夢が同時にかなった。こんな未来が待っていたんだと。(戦中、戦後の日本を描いた)ドメスティックな話だったが、ちゃんと観客に伝わるんだと分かった」

この先の目標を聞いた。

「夢見ていたゴジラを作り終わった喪失感がものすごい。他の人のを見てみたい気持ちと、渡すもんか! という両方があります。あとは『スター・ウォーズ』しかない。やらせてくれないかな?」

もう1つ夢がある。興収12億円を記録した00年の監督デビュー作「ジュブナイル」の前に提案も、規模が大きすぎて実現できなかった「鵺/NUE」だ。

「アジアの『スター・ウォーズ』みたいな映画を作りたいという夢が果たされていない。オリジナルのSFファンタジーで金がかかる企画は簡単に動かない。どのくらいずっと持っていられる夢か分からないですけど『鵺-』はやりたい」

夢の米国に「フロムジャパンの力を見せつける。本家が乗り込むから堂々と行く」と乗り込み、手応えをつかんだ今、断言する。

「日本で一生懸命、作ることが世界への扉を開くことだと思えた。『ゴジラ-1.0』が米国で大ヒットすれば、日本にいながらにして『スター・ウォーズ』という芽も、なくはない」

日本でエンターテインメント映画の高みを突き詰め続けた先に、世界を見る。

▼「ゴジラ-1.0」主演の神木隆之介

(山崎貴監督が)憧れ、夢だったゴジラを作り、それを(北米プレミアで米ハリウッドに)持ってきて、あんな熱量で見てもらえた。プレミアに来ていないお客さんにも伝わっていくだろうし(北米に)どういう風に広がっていくかが楽しみ。そんな監督の姿を見て、一緒に来ることが出来てうれしかった。

◆山崎貴(やまざき・たかし)

1964年(昭39)6月12日生まれ。阿佐ケ谷美術専門学校在学中にアルバイトで制作会社「白組」に関わり86年に入社。93年「大病人」など伊丹十三監督作品のSFX担当。主な監督作は「STAND BY ME ドラえもん」「アルキメデスの大戦」など。

ゴジラのフィギュアを手に作品への思いを語った山崎貴監督(撮影・中島郁夫)
ゴジラのフィギュアを手に作品への思いを語った山崎貴監督(撮影・中島郁夫)
北米プレミアを終え、観客と喜びを分かち合う山崎貴監督(左)と神木隆之介
北米プレミアを終え、観客と喜びを分かち合う山崎貴監督(左)と神木隆之介