俳優田村正和(たむら・まさかず)さんが心不全のため亡くなっていたことが18日、明らかになりました。77歳。インタビューは年に1回、1社だけ。今の芸能界では考えられないマイペースな大物のプラチナインタビューを06年に行い、チャーミングな人柄が思い出されます。

主演ドラマ「誰よりもママを愛す」(TBS)のタイミングで話を聞く機会を得ました。当時62歳。二枚目俳優の代名詞である人が、専業主夫役の水色のポロシャツ姿で現れたのを覚えています。周囲によれば、自分のイメージを全然気にしない人。「僕はこの衣装で構わないの。んー、ダメ? あはは」。育ちのいいおっとりした人当たりと、ポロシャツでもキレキレの「田村正和」の存在感。無双のオーラが痛快でした。

銀幕のスター、阪東妻三郎の三男。スケールの違う幼少時代を根掘り葉掘り聞くと、「そういう話も必要なわけね」と理解し、懐かしそうにあれこれ教えてくれました。現在の東映京都撮影所(太秦)は阪妻プロの跡地。嵯峨野の家は、1000坪以上の土地に川が流れる「とんでもなくデカい家」だったそうです。テニスコートが2面あり、阪妻主催で近所の子どもと運動会。中学生のころには祇園で「ぼん」とかわいがられ、家には常に映画関係者が出入り。これが生粋のサラブレッドなのだと、話のすべてが新鮮でした。

父親を亡くしたのは9歳の時。4人兄弟のうち、父親に俳優志望を伝えていたのは彼だけでした。「子供だったから、軽い気持ちで『やる』と言ったと思うんだけど、おやじは僕のために家に扮装(ふんそう)テストのスタッフまで呼んでくれるほど喜んだ」。

大学卒業とともに、松竹が主演映画を4本用意してくれましたが、「責任の大きさを理解できないまま、チャラチャラと取り組んでいた」。映画界では結果を残せず、「うちの子にかぎって」(TBS、84年)などのコメディードラマでブレークしたのは40を過ぎてからです。

若い頃を振り返ると、後悔と反省の弁。「俳優という花の根っこの部分や、ほかの俳優たちがどれだけ鍛錬してその場にいるのかを見極められなかった。だからこの程度の俳優にしかなれなかった」。売れっ子の大スターが自らを“この程度の俳優”と評したことに驚くと同時に、謙遜ではなく、本心とも感じました。理想はやはり、偉大な父、阪東妻三郎だったのだと思います。

生まれ変わっても俳優になるかという質問には、決まって「やりたくない気持ち」と答えてきたそうですが、インタビューではこうも語りました。「シャクだからもう1回この仕事を志して、しっかり教えてくれる人がいて、それを受け止める自分がいて、そういう状態でもう1度俳優をやりたいという気持ちもあるんだよね。今回の人生は満足しないまま終わるけど、残された時間を、フェードアウトするまでベストを尽くして頑張ってみようって」。

ここまで話して、「あ、なんか寂しい感じで終わっちゃいました」と古畑任三郎のように笑い、「前向きなんですよ。来世でもっと頑張ります、って話なんだから」。言葉通り、フェードアウトするまで第一線であり続けた俳優人生に圧倒されるばかりです。ルックスもハートも、とことん二枚目。書ききれない貴重な話の数々と、すてきな時間をありがとうございました。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)