来年2月11日の大阪松竹座公演から「4代目桂春団治」襲名興行をスタートさせる桂春之輔(69)が25日、初代からゆかりの赤い人力車に乗って、大阪・天満天神繁昌亭から大阪天満宮へ参拝。上方落語の先人を顕彰する境内社「高坐招魂社(こうざしょうこんしゃ)」へも参り、襲名を報告した。

 人力車を降りた春之輔は、初代春団治から伝わる「金くさりの羽織ひも」の重みについて語った。

 「春団治の代々続く華麗な芸風を私が継げるのか、いささか重い。金のくさりも、やっぱり重い。もう少ししたら着けてみようと重います」

 この日、羽織を結んでいたのは、初代から伝わる金くさりではなく、師匠の故3代目桂春団治さんからもらった朱色の羽織ひもだった。あえて、春団治の看板代わりにもなる金の羽織ひもを封印して臨んでいた。

 3代目の熱烈なファンで弟子入りした春之輔は、師匠の最晩年まで最も近くで世話をし、3代目の遺族の信任も厚い。この日の朱色ひもは「襲名を言われるよりだいぶ前に、(個人的に)もらっていたもんです」と明かした。

 師匠の3代目は、2代目の実子。初代から続く「豪快で華やか、艶やか」な上方落語の代名詞イメージの名跡と闘いつつも、「3代目春団治」の看板を育て上げ、当代きっての色気を放つ落語家として、ファンを魅了してきた。

 そんな師匠の奮闘を間近で見てきた春之輔にとって、名跡「春団治」は誰よりも重く、襲名が公表されて以降、喜びを公言したことはない。

 「(今年1月の)遺言開き(で襲名が伝えられて)からここまで、うれしい気持ちはまったくないですが、それでもやっぱり、気持ちはじょじょに高揚してきました」

 この日も、人力車の上では感極まったような表情も。人力車は、初代からの「春団治の象徴」とされ、06年9月、上方戦後初の定席「天満天神繁昌亭」が開館した際には、3代目も乗車。上方落語協会の桂文枝会長らが押し、3代目を乗せた人力車が近隣商店街へあいさつに回った。

 以後、人力車は繁昌亭に展示され、3代目をしのび、繁昌亭から送った際にも使われた“上方落語の象徴”のひとつでもある。

 襲名まで1カ月半に迫った春之輔は、師匠が実父の2代目から受け継いだ出ばやし「野崎」も継承することを決め「何というても、力まんように務めたい」と話していた。