作曲家・古関裕而をモデルとして話題のNHK朝の連続テレビ小説「エール」が、新型コロナウイルスの影響で、29日から一時放送休止となります。

“エールロス”を感じる読者のために、今日22日から連載「エールを君に!! 古関裕而を読む」をスタート。ドラマ再開後の参考にもなるように、あらためて足跡をたどります。第1回は、巨人-阪神3連戦など待望のプロ野球開幕に合わせ、古関氏が作曲した応援歌(巨人)を紹介します。【笹森文彦】

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リモート観戦でも、阪神ファンは「六甲おろし」を、巨人ファンは「闘魂こめて」を歌っただろう。この応援歌(球団歌)はいずれも古関氏が作曲した。

「六甲おろし」(作詞・佐藤惣之助)は「六甲おろしにさっそうと 蒼天かける日輪の…」と歌う。正式タイトルは「阪神タイガースの歌」。球団が創設された翌年の36年(昭11)に制作された。現存するプロ球団最古の応援歌である。

古関氏が27歳の時に作曲した。理由の1つは、専属作曲家として所属するレコード会社の日本コロムビア硬式野球部(本拠地・川崎市)が、都市対抗野球の強豪だったからだ。米ハワイ日系人2世で法大出身の若林忠志投手を擁し、35年の第9回都市対抗野球大会で準優勝した。古関氏は神宮球場で応援のブラスバンドを指揮し、淡谷のり子ら所属歌手も応援した。

「七色の魔球」と言われた若林氏は翌36年1月に、阪急や巨人との争奪戦の末、阪神とプロ契約。直後に球団歌の制作話が持ち上がり、日本コロムビアで親交のあった作詞の佐藤氏、作曲の古関氏を仲介した。後の阪神監督で、今も球団記録の通算233勝をマークした若林氏がいてこその「六甲おろし」だった。

巨人の「闘魂こめて」(作詞・椿三平、補作詞・西条八十)は、「闘魂こめて 大空へ 球は飛ぶ飛ぶ 炎と燃えて…」と歌う。54歳だった古関氏が63年(昭38)に作曲した。球団創立30周年を記念して制作された3代目の球団歌で、正式タイトルは「巨人軍の歌(闘魂こめて)」。

古関氏は「六甲おろし」から3年後の39年に、30歳で初代球団歌「巨人軍の歌(野球の王者)」も作曲しているが、「闘魂こめて」は長嶋茂雄氏と王貞治氏のON時代と歩調を合わせてファンに浸透した。

阪神ファンが「商魂こめて」とからかって大合唱することもあるが、互いに意識する名応援歌だからこそである。かつて王氏は「『六甲おろし』はリズム感があって良い歌。相手の応援歌なんだけど、実はこっちも励まされていた。古関さんの応援歌はスポーツをしている人を、元気づけようという思いにあふれている」と話した。

故郷の福島市では一昨年、音楽を通じて野球の発展に寄与したとして「古関裕而氏の野球殿堂入りを実現する会」を発足させた。賛同団体には、巨人も阪神も名を連ねる。実現していないが、福島市は「これからもアピールしていきたい」と意欲満々だ。賛同団体には、東京6大学野球連盟もある。巨人阪神と同様に、宿敵同士の早大と慶大も古関氏と関わりが深い。第2回は「早慶讃歌-花の早慶戦-」を紹介する。

◆古関裕而(こせき・ゆうじ)本名・古関勇治。1909年(明42)8月11日、福島県福島市生まれ。福島商卒。川俣銀行勤務の29年(昭4)、日本人として初めて国際作曲コンクールに入賞。30年6月に内山金子と結婚。同年9月に日本コロムビアの専属作曲家になる。31年に早大応援歌「紺碧の空」を作曲。35年に「船頭可愛や」が初ヒット。戦時歌謡の「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」などを作曲。戦後は夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」、「とんがり帽子」「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」「君の名は」「高原列車は行く」「モスラの歌」など数々がヒット。64年の東京五輪で行進曲「オリンピック・マーチ」を作曲。紫綬褒章、勲三等瑞宝章などを受章。福島市名誉市民の第1号。89年8月18日に80歳で死去。

○…ハワイ育ちの若林氏は阪神はもちろん、創生期のプロ野球界にも影響を与えた。球団歌だけでなく、「トラ・マーク」の発案者でもある。「契約金」という概念を持ち込んだ。当時は「割増前渡給料」と言われ、大卒初任給が90円の時代に、若林氏は1万円を得た。社会貢献にも積極的で、その功績から阪神には「若林忠志賞」がある。65年に57歳で死去した。