今月10日に渡哲也さんが亡くなりました。78歳でした。ニッカンスポーツコムでは、日本を代表するスター俳優の実像に迫る連載「知られざる渡哲也」を配信します。第2回は「押し入れで泣いた夜」です。

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渡さんには「父親」として信念があった。「いざという時にどう対応できるか。父親の存在意義はそこにある」。当時65歳。「父性」について話す機会があった。当時34歳だった長男暁史(あきふみ)さんが高校生の時、部屋の勉強机に置き手紙をしたという。「協調性がないと書きました。ラグビーをやっていて体も大きかったのですが、私の目から見て、友達付き合いなどで調子に乗っているように見えた。男って友人や仲間の存在は大事じゃないですか。私のことを煙たがっているように見えましたが、このまま放っておくと大変なことになる。そう思って書きました」。

スパルタ教育で礼儀作法は厳しかった。長男が小学生時代、レストランで騒ぎ出すと店の外に連れ出して叱った。「人さまに迷惑をかけるな!」と一喝してビンタした。「男の子でしたから中学生ぐらいまで殴りました。手で殴ると痛いので、テレビのリモコンでひっぱたいたこともありました。注意すると『みんなもやっている』と言うから『みんながどうだろうと関係ない。お前自身がどうなんだ!』って言ってよく怒鳴りつけましたよ」。

やがて自分と口をきかなくなり、叱る機会も減っていた。「困った時、どうしようもない時、迷っている時、こちらに心を開けるような余地を残してやる。普段は煙たがられてもいい。緊急時、非常時にどういう対応ができるか。父親の本質はそこにあるんじゃないですか」。

信念は父賢治さんから身をもって感じた愛情が大きく影響していた。賢治さんは戦争激化に伴う食糧難から勤務先の日立製作所を退職、故郷淡路島で洋品店を開いた。明治生まれで頑固一徹。厳しい人だった。「すぐ手が出る。とにかく怖かった。友だちと遊んで晩ご飯の時間に遅れるとビンタ。口答えすればビンタ。音を立ててものを食べればビンタです」。夜中まで勉強をさせられ、警察の道場で柔道も習わされた。

中3になると海を渡った兵庫県三田市内の中学校に編入させられた。高校はそのまま兵庫で寮生活。「心細くて嫌でした。冬も冷たい水で洗濯。廊下を掃いてぞうきんがけ。上下関係も厳しく風呂は上級生から。食事も粗食でね。何でこんな生活を送らなきゃいけないんだって」。

不満はゆがんだ形で表れた。授業をサボり、宿題はやらない。「真っ赤なシャツを着て夜中に友だちとバーに繰り出してね。タバコも吸ってよくケンカもしました」。成績は急降下。停学処分も受け、母雅子さんは何度も呼び出された。高校最後の夏休みは実家に帰った。自分を突き放したことに対する反抗心もあり、父とは口もきかなかった。

寮に戻ると手紙が届いていた。差出人は父。400字詰め原稿用紙3枚にびっしりとつづられていた。「夜遊び、タバコ、乱れた服装、父は全部知っていました。心配で眠れないと。洋品店を開いた時、信用がなくて資金集めに苦労した時に学業の大切さを感じたとも書いてありました」。自堕落な生活は一時の気の迷いで、本来はいい子なのだが、変わらないなら母と弟と3人で生きていくと記され、「最愛の道彦(渡さんの本名)よ、考えよ」と結ばれていた。「寮の部屋の押し入れで読みながら泣きました。こたえました。普段はすぐに手が出る父が、手紙を書いてくれたこと自体がうれしくてね。俺のことをよく見ていてくれたというやさしさに触れた気がして恥ずかしいんですけど泣けました。道を踏み外す最悪の事態まで進まずにすむブレーキがかかった」。

時代が移り、親子の在り方も変化している。「子供たちにとって友だちのような存在でいたい」と理想を掲げる父親も増えた。渡さんは言った。「何バカなことを言っているんだと。どんどん突き放していけばいいんです。父も突き放して独立心、親離れをさせようとした上で、肝心な時に適切な対応をしてくれた。古いと言われてもいい。父親はそれでいいんだと私は思います」。時代には流されない。父親としても気骨の人だった。【松田秀彦】