2014年(平26)に83歳で亡くなった、俳優高倉健さんの養女で高倉プロモーション代表の小田貴月(おだ・たか)さんが19日、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)にゲスト出演した。小田さんは、パーソナリティーの生島ヒロシ(72)が会長を務める芸能事務所「生島企画室」と業務提携して文化人として活動している。

小田さんは高倉さんのパートナーとして、亡くなるまで17年の時を共にした。3月29日に、高倉さんの最後の1年間をつづった命の記録「高倉健、最後の季節(とき)。」を文芸春秋から出版している。この日の放送から3日間、生島と対談する。

生島は「僕は宮城の気仙沼生まれで、おやじの勤めていた会社が映画館を経営していました。古き良き時代で、高倉健さんの映画を見ると、映画館を出た瞬間に肩で風を切って歩いてました」と振り返った。

小田さんは「大丈夫だろうと、田舎町に行ってプラプラ歩いていて、出合った漁師さんに『僕のことを知ってますか』って聞いたら『あんたは日本の顔じゃけん』と言われてビクッとしたって言うんです。だから変なことは出来ない、ストイックなムードは崩せないと」と、在りし日の高倉さんを振り返った。

生島は「プライベートがベールに隠されていたので、(小田さんの)本を読むとすごい見えてきた。感動しながら読みました。(死ぬまでを)書き残してというのは、ご自分の中で死を意識していらっしゃったんですかね」と、高倉さんの気持ちを聞いた。

小田さんは「高倉の場合は(映画の)『南極物語』(の撮影)で実際に死ぬような体験をしていました。50歳の時ですね。人間は簡単に死ぬんだなと、どんな瞬間でも、映画の撮影は特殊ですが、こんな目に遭うんだと、人体実験だと思ったという話を聞いたことがありました。『人間というのは生まれたから死ぬんだよ。病気とかはきっかけにすぎない』と言っていました。死に対しては怖がっていなかった。死に方は選べない。自分の心構えとして、いつそうなってもいいように毎日一生懸命、悔いのないように生きていた。そういう気がします」と話した。

そして「南極、北極に仕事で行った俳優は、多分僕だけだと思う。そして“極地俳優”という言葉を使っていました。『僕は極地俳優だから』と誇りを持っていました」と笑った。

生島が「死に向かっていく様がドキュメントのようにつながっている」と本を読んだ感想を言うと、小田さんは「高倉って、すごい直感力の優れた人でした。『大丈夫』とかいう安直な言葉は嫌っていました。もう、自分の身体のことを分かっていたんです。『大丈夫』という安直な言葉はいらなかったんです。沈黙というか、言葉はなくても安心していただける状況を作るだけでした。時間を共用して黙って寄り添っていればよかったんです」。

生島が「本の中に書いてありますけど『僕は死ぬのかな』という言葉を聞いた時はどうでしたか」。小田さんは「『いや、大丈夫ですよ』とも言えない。毎日、見てるわけですから。無言の会話を毎日していました。目で訴えてくるわけですから。その中で私が出来たのは『一緒にいます』ということを伝えることだけ。イエスでもノーでもない。変に言葉をつむぐより『一緒にいますよ』を伝える」と話した。

そして「『僕は死ぬのかな』と言ったのは、ベッドに腰かけて、腰が痛いと言って寝られないと言っていた時。満月がきれいな晩で『満月がきれいだね。僕はこの病気で死ぬのかな』と。私は絶対に泣かないと決めていたので、泣かないでいようと思いました。高倉自身は死に対して、悲しんだり怖がったりしませんでした。『ずっと一緒にいますから大丈夫ですよ』と。それしか出来ない。ずっと腰をさすり続けていました。『温かいね』と。ずっとぬくもりを手放さないように、ずっと月を見ていました」と、高倉さんと共に死に向き合った日々を振り返った。

生島は「本を読んで、老いていく、闘って行く様がつぶさに分かりました。まさに歴史の証言者。小田さんの言葉がいいですね。砂時計(の砂)が下に落ちていくような感じ」と話した。

小田さんは20、21日も出演する。

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