スーパースターは没後22年を経ても伝説をつくった。1987年(昭和62)に52歳の若さで亡くなった俳優石原裕次郎さんの二十三回忌法要イベントが5日、東京・国立競技場で行われ、全国から約12万人のファンが訪れた。3つの門を開放したが、ピーク時には献花まで6時間を要する大行列ができた。主催した石原プロはかねてファンを招いた大規模な法要は「これが最後」と明言。これに後押しされるように、裕次郎さんとともに戦後日本を歩んだファンが押し寄せ、最後の別れを告げた。

 徹夜組も出た参列者は、この日午前6時すぎから競技場内に入場した。午前9時すぎから始まったセレモニー中、入場制限が実施されると、あふれかえったファンは3カ所の入場門に長蛇の列をつくった。時間の経過とともに最後尾はどんどん競技場から離れ、ピークを迎えた午後2時すぎには、献花台にたどり着くまで、6時間以上を要する大行列となった。同時に50人が献花できるスペースを用意したものの、競技場の客席は常に順番待ちのファンで埋め尽くされた。行列は日没を迎えても途絶えなかった。

 法要イベントの「最後」という言葉にファンも心を揺さぶられた。没後22年。スターとはいえ、その死は遠い過去ととらえられても不思議はない。ファンの中心層も高齢化し、石原プロでも「参列を控える方も多いのでは」とみていた。ところが長蛇の列が競技場周辺でとぐろを巻き、11万6862人が参列。不滅の人気を証明するかのようだった。同世代のファンは誰もが「最後だと思うとどうしても参列したかった」と口をそろえ、青春時代の象徴に手を合わせた。

 セレモニーは裕次郎夫人のまき子さん(75)や石原プロの渡哲也社長(67)らが登場。菩提(ぼだい)寺の横浜・総持寺の本殿を再現した拝殿「裕次郎寺」で焼香後、総持寺の僧侶120人による読経に手を合わせた。

 競技場を埋めた約3万5000人のファンに囲まれ、グラウンド中央に立ったまき子さんは「(裕次郎さんは)本当に幸せな人だと思います」と声を詰まらせた。渡は興奮して「天にいる裕次郎さんに声を掛けてみようと思います。『裕ちゃ~ん!』と言いますよ」。間を置かず「裕ちゃ~ん!」と叫ぶ渡に導かれ、スタンドのファンも「裕ちゃん!」と3回叫んだ。「みなさんの声は石原のもとに届いていると思います」と締めると場内は拍手に包まれた。渡は「ファンの方々との法要はこれが最後だと思うと、何とか一体になれないかと。ふと思いついたんです」。これまで「裕ちゃん」と呼んだことなど1度もなかった武骨な男が我を忘れてしまうほど「最後」の意味は大きかった。

 99年に十三回忌法要を総持寺で行ったところ、20万人のファンが殺到し大混乱した。最後の法要で混乱は何としても避けたかった。収容規模から同競技場を選び、そこに総持寺を建てればいいという発想が今回の法要だった。

 その明るさやおおらかさから裕次郎さんは「太陽」に例えられた。葬儀や法要のたびに必ず雨に降られてきたが、この日は初めて一滴の雨も降らなかった。すべての法要で陣頭指揮を執ってきた石原プロ小林正彦専務(73)は「『太陽』にふさわしい別れ方を演出したのかも知れません」と空を見上げた。【松田秀彦】

 [2009年7月6日8時56分

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