東日本大震災から11日で丸9年を迎えた。年月が流れ風化が進む中、2020年東京五輪の聖火リレーを走り、少しでも学校防災への関心を呼ぼうとする遺族がいる。大津波により全校児童108人中70人が死亡、4人が行方不明、教職員10人が死亡した宮城県石巻市立大川小学校で、6年生だった次女・真衣さん(当時12)を亡くした鈴木典行さん(55)。震災当日、娘が自宅に忘れていった名札とともに6月20日、被災地石巻を走る。聖火は12日、ギリシャ・オリンピアで採火される。

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大川小が聖火リレーコースにならないのなら「自分が走ろう」と思い立った。大津波災害とはいえ、学校防災の不備が招いた大惨事を風化させるわけにはいかなかった。

9年の歳月は「長い、長い年月」だった。変わり果てた姿でも、校舎を見るたび、娘が生活していた日々を思い出す。教室の荷物かけには今もきれいに「鈴木真衣」のシールが貼られている。

目に浮かぶのは活発な姿。放送委員としてマイクを握り、運動会を盛り上げた。バスケットボール部では身長145センチの速攻が得意なFWだった。

鈴木さんはバスケ未経験ながらコーチを買って出た。「ここがゴールで、ここでミーティングをやってたな」。屋根も床も津波に吹き飛ばされた体育館跡地で、11年3月以前の風景を思い浮かべた。娘とともにバスケ漫画「スラムダンク」を教材にした。「中学でもバスケをやりたい」と話していたのに…。9年前のこの日、少女の前途が無残にも絶たれた。

スコップやつるはしは使えない。親たちは素手で土砂を掘り続けた。見つからないでほしい。そう願ったが、足が見えた。さらに掘ると、かかとに「真衣」と書かれた上靴が。ああ…。言葉にならない。震災から2日後だった。

同じエリアで見つかった子どもたちは30人余り。ブルーシートに遺体を並べた。家に連れて帰ることを警察に止められた。死者は遺体安置所に連れて行くことが決まりとの理由で。眼鏡だけを外し、持ち帰った。家族は皆、それを見て悟った。

「よく当時の気持ちを振り返ってと聞かれる。正気を失っていたとは思うけど、どんな気持ちかなんて、言葉で表せるものではない」。

残された真衣さんの財布に震災後3、4カ月は毎月、1000円のお小遣いを入れていた。将来の夢は幼稚園の先生。子どもを亡くした苦しさは、一生消えない。

海岸から4キロ、一部教員の津波は来ないとの思いこみから、地震発生から50分もの間、極寒の校庭への待機が命じられたという。「山さ逃げよう」と言って、普段から授業で使っていた裏山に走りかけた6年生を、教員らが止めたという情報さえあるという。教育委員会に提出していた防災マニュアルも、十分な根拠があるものではなかった。

児童遺族でつくる「大川伝承の会」の共同代表として毎月、校舎で語り部活動をしている。取材した2月某日も、全国の教員が鈴木さんのもとを訪れた。伝え続けることが大事。もうこの悲劇を繰り返してほしくない。

その延長線が、聖火ランナーへの応募だった。全世界が注目する五輪の一大イベント。風化に一石を投じる良い機会だと思った。

大きな理由がもう1つ。「真衣と一緒に走りたい」。自宅に忘れていった小6の名札を着けて、トーチを持つ。あの日、ハイタッチをして送り出したままの愛娘が、きっと並走してくれる。【三須一紀】

 

◇大川小を巡る経過◇

◆2011年3月11日 東日本大震災が発生。巨大津波で大川小の児童74人、教職員10人が犠牲に

◆12年1月22日 石巻市の教育長が「天災と人災、両方の面があった。危機意識を高めておくべきだった」と保護者に謝罪

◆14年3月 第三者検証委員会が、不十分な防災体制で避難が遅れたとする報告書を市に提出

◆同10日 児童23人の遺族が、市と県に約23億円の賠償を求め仙台地裁に提訴

◆10月 地裁が市と宮城県に約14億円の支払いを命じる判決

◆16年3月 市は大川小校舎全体を震災遺構として保存することを決定。

◆18年4月 1審では地震発生後の教員らの過失としたが、控訴審では学校側の防災体制の不備や市教委まで含めた過失を認定。再び約14億円の支払いを市と県に命じた。

◆同5月 市と県が最高裁へ上告。

◆19年10月、上告棄却で2審判決が確定した。