1945年(昭20)3月29日、嶋はベトナム沖で帰らぬ人となった。海草中野球部の生みの親、丸山直広らゆかりの人々は戦死公報で嶋の死を知った。夫を亡くした嶋の妻よしこは「東京に帰ります」と丸山家にいとまを告げに来た。

 それぞれの戦後が始まる中、終戦直後に戦地から戻ったのが嶋の親友、古角俊郎だった。

 海草中で39年夏全国制覇時に中堅手だった古角は復員後、社会人野球で活躍した。48年に和歌山・紀伊勝浦に戻り、実家の旅館「なぎさや」を継いだ。家業のかたわら、新宮野球部監督に就任。春夏計6度、新宮を甲子園に導き、55年夏はエース前岡勤也を擁して優勝筆頭候補の浪華商(大阪、現在の大体大浪商)を破った。旅館も掛布雅之ら阪神の人気選手がひいきにし、自主トレの定宿となった。家業も順調だった。

 その古角が生涯をかけたのが、盟友・嶋の「復活」だった。

 評伝「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」の著者、山本暢俊は古角に会い、旧友を思う熱さに心を打たれた。

 山本 嫉妬してしまったほどでした。男同士の、野球を通してのつながりというのは、今のぼくらの生やさしい時代を生きたのと違う重さというか、強さというか、熱量があった。

 評伝を書く山本のため、古角は紀伊勝浦から何度も大阪に足を運んだ。2人は難波近くの喫茶店で、カツサンドとアイスコーヒーに舌鼓を打ちながら何時間も嶋を語った。店の名物を知っていたのも、気兼ねなく長居ができたのも「古角さんの下見のおかげでした」と山本は言う。古角は母校・明大の野球部OB会「駿台倶楽部」の最高顧問も務めた。星野仙一らも頭が上がらなかった長老は、24歳で逝った友を思い続ける人だった。和歌山の球史に詳しく、古角と親しかった向陽(旧海草中)OB松本五十雄は「これほどまでに思えるのかと思うほど、嶋さんを思っておられました」と語る。

 駿台倶楽部の推薦もあり、08年に嶋は野球殿堂入りを果たした。第90回の記念大会開催中の甲子園で、終戦の日の8月15日に表彰式が行われた。表彰のグラウンドに立ったのは古角だった。古角の長男俊行は、ネット裏で騒然となった一幕を明かした。

 古角俊行 左胸に手を当てた父を見て、明大OBの方たちが「大変や! 古角さんが心臓発作起こした!」って大騒ぎで。

 そのとき、古角は左胸の「2人」に語りかけていたのだ。胸のポケットには1枚の写真があった。39年夏の決勝翌日、甲子園プールで撮った写真。嶋と親交の深かった丸山が写っていた。

 古角は13年1月、急性心不全で亡くなった。91歳だった。亡くなる直前まで好物のすき焼きをつついての大往生だった。

 古角俊行 (戦争から)生きて戻ってきたら素晴らしい選手になっただろう、という父の想像の世界で、嶋さんはずっと生きていた。配属先に向かうために、22歳で別れたときのイメージのまま。だから余計に思いが深かったのだと思います。

 野球殿堂入りも「和歌山市の偉人」への選出にも古角の尽力があった。親友をよみがえらせ、古角は嶋の待つ国に旅立った。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月19日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)