野球の国から 高校野球編

群馬から2時間かけて通学/斎藤佑樹2

斎藤は、高校選びの岐路に立っていた。群馬・新田町(現太田市)の生品(いくしな)中で軟式野球部員だった15歳の夏だ。受験が近づき、家族や担任教師と進学先を相談するようになっていた。

06年8月19日、準決勝の鹿児島工戦でハンカチで汗をぬぐう早実・斎藤。右は和泉監督
06年8月19日、準決勝の鹿児島工戦でハンカチで汗をぬぐう早実・斎藤。右は和泉監督

もちろん甲子園にあこがれていた。小学4年生だった98年、横浜高・松坂大輔が決勝戦でノーヒットノーランをする姿に心を奪われた。彼のように甲子園に出て活躍したいと思っていた。夢をかなえるなら、甲子園常連の強豪校が近道になる。だが、実際に志望校を決める段になれば、当然ながら現実的な考えも出てくる。

斎藤 ちゃんと勉強もしたかったんですよね。

兄聡仁(あきひと)も地元の県立高校に通っていた。斎藤は志望校の欄に「太田高校」と記した。甲子園出場経験のない、群馬県立の進学校だった。

その直後に、人生を、高校野球史を変える出来事があった。早実から受験の誘いがあったのだ。監督の和泉実が、群馬まで足を運び、斎藤の投球を見て能力を見込んだ。早大OBからの勧めがきっかけだった。

和泉 いい選手がいるから見てほしいと言われたんですよ。

早実からの誘いは、斎藤にとっても魅力的だった。当時すでに春17回、夏26回の甲子園出場を誇っていた一方、勉学のレベルも高く進学率は100%だった。

斎藤 野球だけ強いところって、たくさんある。でも早実は文武両道。勉強もできて甲子園も目指せる。

そこに大きな壁があることを知ったのは、その後だった。早実は、スポーツ分野の推薦入試資格に「全国・関東大会に出場」と定めていた。斎藤がエースを務める生品中は、県大会で1勝がやっとのチーム。あまりに高いノルマだった。かといって一般入試では競争倍率も上がり、不合格というリスクも高くなる。教師の中には慎重派が多かった。

そんな状況を打破したのは、中学最後の夏に見せた自らの快投だった。投げるたびに2ケタ奪三振を記録し、群馬県大会で準優勝、関東大会でもベスト8まで引っ張った。土壇場で推薦入試の資格を勝ち取り、試験勉強の成果もあって合格。のちに球史に刻まれることになる、早実・斎藤佑樹の誕生だった。

2年半後には世間からの注目を一身に集めることになる新入生の斎藤だが、入学後すぐに、厳しい現実に直面していた。早実には寮がなく、原則として親元から通学する規定があった。

斎藤 最初は群馬から通っていたんです。校舎が国分寺にあるので片道2時間。そんな生徒は僕だけでした。それはやっぱりきつかったですね。

午前5時過ぎの始発に乗らなければ始業に間に合わない。帰りも夜遅くになった。斎藤は全校生徒約1200人の中で最も遠方から通っていた。さらに野球部には「電車では座ってはいけない。立ち姿勢は片足体重ではいけない」という規則があった。授業と練習で疲れた体にはダメージが大きかった。苦笑いで、いま明かす。

斎藤 先輩の姿がなくなったら、そこからは寝てましたよね。

電車が都内を出て、埼玉に入る頃には車内に顔見知りがいなくなる。以後は睡眠時間だった。

ちなみに野球部の規則には「下級生は移動時に学帽をかぶらなければいけない」というものもあった。多感な青春時代。当時は着帽が恥ずかしかったという。

斎藤 今考えたら笑えますよね。(サザエさんの)カツオくんじゃないんだから。

入学当初は電車内の記憶ばかりが残っている。希望通りの早実に入った斎藤だが、なかなか野球に集中できる環境は整わなかった。(敬称略=つづく)【本間翼】

(2017年9月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

 2018年夏、全国高校野球選手権大会(甲子園)が100回大会を迎えます。その記念大会へ向け、日刊スポーツが総力を挙げた連載を毎日掲載します。

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