中国地方最大の河川である江の川(ごうのかわ)は、その大きさから「中国太郎」の別名を持つ。広島、島根にまたがって流れ、江の川高校(現石見智翠館)のある江津市から日本海へ注いでいる。谷繁は生まれ育った広島を離れ、川の流れに沿うように島根へわたった。

谷繁 初めて寮に向かう日は覚えている。オヤジが運転する車に母親と3人で乗ってね。約2時間の道のりは不安ばかりだった。「どういう生活が待っているのだろうか」とね。寮の部屋に入って、両親が帰る時はさびしかったな。

男子生徒が入る寮は「星高(ほしたか)寮」といった。学校近くの星高山(星の山)にちなむ名前だった。ここに集まる選手のほとんどは、他府県の出身だった。兵庫、広島、大阪、京都…。谷繁が2年で甲子園に出た87年夏、2番二塁の平岡賢二は島根出身だったが、当時の週刊朝日は彼を「十年ぶりの県内出身選手」と書いている。

谷繁 いろんな県から集まっているから、入学時は誰も知らない。1年生同士の2人部屋だから気は楽だったけど、電気を消して寝る時は実家を思い出し、涙が出てきたこともあった。でも、みんな親元を離れてきている。仲間に弱みは見せられない。チームメートの前では強がっていたのを覚えているよ。

寮生活は厳しかった。朝6時に起床してグラウンド整備やボール磨き。先輩を起こして朝食の世話をする。授業が終わったら、先輩のユニホームを用意。練習後に片付けを終えたら、洗濯機へ全力で走った。

谷繁 1年生全員分の洗濯機はないから、取り損なうと洗濯が後回しになって寝る時間がなくなる。これでケンカが起きる。「オレの帽子が置いてあっただろう。オレが先だ」とかね。

夜間練習、先輩のマッサージ…強豪校の寮では宿命だが、つらい毎日だった。1カ月が過ぎた頃、同級生が「もう無理。逃げ出したい」と言い出した。谷繁も含め5人ほどが同調し、脱走すると決めた。

谷繁 オレもきつかったんだよ。寮のある学校は山と海に囲まれているから、夜は逃げられない。夜明けと同時に逃げ出す段取りになった。

脱走メンバーが1つの部屋に集まり、雑魚寝をしながら空が明るくなるのを待った。ところが谷繁は、練習の疲れから寝入ってしまった。

谷繁 起きたら部屋にオレしかいない。みんな逃げた後で、オレだけ置いていかれちゃった。「何だよ」と思って、仕方がないから自分の部屋に戻って、もう1度寝た。

逃げたメンバーは江津駅で見つかって、その日のうちに連れ戻されたという。谷繁が、自分を置き去りにした理由を聞くと「お前は逃げちゃダメだと思った。野球で必ず成功するから」と言われた。

谷繁は5月の末、実家の両親に手紙を送っている。白い便箋にたった3行、「お父さん お母さんへ 家に帰りたい。 元信より」と書いた。父一夫は、この手紙をアルバムに入れて、今も大切に保管している。

ただ、つらい寮生活を送りながらも、野球では入学直後から才能を発揮していた。そして、彼が生涯をかけて守るポジションと出合う。(敬称略=つづく)

【飯島智則】

(2017年9月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

高校1年の5月、谷繁が両親に宛てて送った手紙
高校1年の5月、谷繁が両親に宛てて送った手紙