今夏の交流試合が後半戦に入る前日の8月14日、河合孝さんが亡くなった。64歳だった。強豪ひしめく大阪で、40年近くにわたって母校・市岡や阿武野、港などの公立校を指導。17年に育成功労賞を受賞した。大阪の高校球界を代表する監督の1人だった。

河合元監督を取材したのは、アマチュア野球担当になったばかりの95年2月。当時の河合元監督は市岡の監督で、前年の秋季近畿大会で8強入りし、センバツ切符を待っていた。近畿大会準々決勝で伊都(和歌山)に6-13と完敗していたが、同様に朗報を待つ関係者からは「市岡を落とすわけがない」といった選考予想を聞いた。市岡は、草創期の高校球界を支えてきた名門。選考レースでも優位に立つのでは? という強い羨望(せんぼう)が周囲にあった。市岡は出場切符を手にし、大会では初戦で日南学園(宮崎)に5-8で敗れた。

同年夏の大阪大会。優勝筆頭候補は、ドラフトの超目玉、福留孝介(阪神)が主将を務めるPL学園だった。センバツはまさかの初戦敗退を喫したが夏の大阪は順調に勝ち進み、福留もOBの清原和博(元オリックス)の大阪5本塁打の記録を塗り替えるなど期待に応えた。優勝筆頭候補に恥じない進撃で、決勝を迎えた。そのPL学園の前に立ちはだかったのが、もう1つの山を勝ち上がってきた市岡だった。

95年の大阪の夏も、激戦だった。上宮・三木肇(楽天監督)、近大付・山下勝己(元楽天)らプロ注目の遊撃手がそろい、熱く激しい地方大会を展開。その中でPL学園と市岡が2強に残ったのだ。

迎えた決勝戦。市岡のエースで4番・井上雅文の活躍は、目を見張るものだった。7月7日の練習中に靱帯(じんたい)を痛めた右足首に痛み止めを打ち、55年ぶりの夏の甲子園へ獅子奮迅の働きを見せた。三本線の帽子に代表される伝統のユニホーム姿が、夏のグラウンドで大きくたくましく見えた。中盤まで4-4と互角の展開も、追いついた市岡に勢いがあった。

市岡に傾きかけた流れをせき止めたのが、福留だった。井上のスライダーを捉え、中堅越えに勝ち越しの7号弾をかけた。それが決勝弾になった。「あの球をあそこまで持って行かれるとは…さすがです。でも打たれてほっとした。高校日本一の打者が、ぼくなんかに抑えられたら幻滅してしまうから」。右足首の痛みをこらえて投げ抜いた井上は、さわやかだった。自身も5打数4安打の大活躍だった。勝った福留は閉会式後、感情を爆発させた。寮に戻るバスの前で、応援に駆けつけた知人の顔を見たとたんに大泣き。それほど苦しい試合だった。

市岡は文句なしに強かった。95年春の近畿大会府予選を制したのも市岡。準決勝でPL学園、決勝で大阪桐蔭と強豪私学を倒し、河合監督は「負けたけどセンバツでいい試合ができたのがこの結果につながった。この優勝は励みになるし、自信になる」とセンバツ効果を語っていた。95年の市岡は、文句なしの代表校だった。そういうチームに育てあげたのが、河合元監督だった。(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)