14年前の2006年5月11日、横浜石井琢朗内野手が2000安打を達成した。ドラフト外で入団し、投手から野手に転向。18年目で大台に到達した。09年に広島に移籍し12年に引退。現役24年間で積み重ねた安打は歴代11位(19年終了時)の2432本。引退後は指導者の道を歩み、今季からは巨人で野手総合コーチを務めている。

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174センチの小さな打者の大きな偉業だ。横浜石井琢朗内野手(35)が史上34人目の2000安打を達成した。あと1本で迎えた11日の楽天戦で、先頭打者で二遊間を破る中前打を放ち、プロ18年目で到達した。投手で入団し、勝ち星(1勝)を挙げながら打者に転向しての2000安打は「打撃の神様」川上哲治氏(巨人)以来となる。ドラフト外入団でプロの門をたたいた男は、挫折を乗り越えて歴史に名を刻んだ。

こみ上げる感情を抑え切れなかった。1回の攻撃終了後に用意されたセレモニー。一塁フェンス前で両親と夫人から花束を受け取った石井の目から涙があふれた。横浜スタジアムは総立ちで「琢朗コール」。愛する家族の顔が男泣きを誘う。ショートの守備に就くと、涙がこぼれぬようしばらく天を仰いだ。

初回の第1打席。試合開始からわずか6分で決めた。カウント1-1。楽天愛敬の外角121キロのフォークに反応した。「ピッチャーの足元を抜けたところで確信しました」。メモリアルの一打は二遊間を鋭く抜けた。一塁ベースを回る直前、右腕を振り上げてガッツポーズを見せた。

笑顔になるはずの試合後のお立ち台でも言葉が詰まった。あの日の苦しみが脳裏をかすめた。「ここ何年、苦しい思いをして…。結果が出ず、チームにもファンにも迷惑を掛けた」。

02年8月に1500安打を達成。「単純にあと3年で2000本と思った」。だが、翌年に思わぬ大スランプに陥った。野手に転向して初の2軍落ち。ヒット数96本は転向1年目を除けば自己ワースト。どん底で浮かんだのは「引退」の2文字だった。

「すべてに打ち負けそうな自分がいた。本当に引退をする人というのはこういう気持ちになるんだなと思った」。結婚2年。「家族、子供ができ、受け身になった自分がいた。それが野球にまで影響して…」と振り返る。ファーム行きを決断した日、詩織夫人に後のないことを打ち明け、2人で夜通し泣いた。

再びはい上がることができたのは、ファームのグラウンドのにおいだった。1カ月間、泥にまみれて自分に言い聞かせた。「ドラフト外入団。別にエリートでプロの世界に入ったわけではない。すべてはここから始まった」。原点回帰。翌04年158安打「1番ショート」復活につながった。

創意工夫、打撃技術のあくなき向上心が支えた。バットを寝かせる構えは、昨年から採り入れた。「球界一の中日川上君のカットボールに対応できれば、ほかも対応できる」。妥協を許さず年々フォームを改良する。誰にも負けない練習量が支える。「練習はうそをつかない」。信じて歩む。

「2000本はうれしいが、その後が大事です」。危機感もある。今年36歳、若手の台頭も著しい。それでも「そんじょそこらの苦労では音を上げられない。ボロボロになるまでショートを守りたい」。最終目標は「2500。プロの世界で最低でも成人式を迎えること」。通過点。そう自認する数字だ。力尽きるまで、小さなバットマンは夢を追い続ける。

<担当スカウトは>

石井にプロの道を開いたのは当時のスカウト、江尻亮氏(63=横浜OB、元ロッテ監督)だった。入団交渉に訪れた日のことを今も覚えている。「お母さん(栄子さん)に泣かれてねえ。寒い日で、鼻水垂らして外で待ったなあ」。

88年11月、栃木県佐野市にある石井家。「私はとる覚悟で来ました。家族で話し合ってください」。外で待つつもりで家を出ると、大きな泣き声が聞こえてきた。「お母さんは琢朗の大学進学を望んでいたからねえ」。東洋大の内定を覆す横浜入団になった。

江尻氏が石井を初めて見たのは前年4月、のちに阪神入りした麦倉を見ようと訪れた練習試合、その相手だった。「タテに割れるカーブがよかった。マウンドに立つと大きく見えてね。足も速かった」。交渉で自宅を訪れ、さらに気に入った。「学生服でずっと正座して話を聞いていた。あんなにキチッとした高校生はまずいなかった」。庭先ではバットを振った際の深いステップ跡を見つけた。

入団後は石井に何度も野手転向を訴えられた。まだ投手だった2年目、手のひらは素振りでマメだらけ。野手よりもすごかったという。しかし、賛成しなかった。「ヒザが弱かった。野手でやるよりも走ること、体づくりが先だった」。

こんな指導も生きての2000安打達成。「琢朗にはひたむきさがあった。私には未知な数を打ったあと、これからの『志』は何かな。先の人生もみてみたいね」。江尻氏の石井に向ける視線はこれからも変わらない。

▼石井がプロ野球34人目の通算2000安打を達成した。石井は88年ドラフト外で投手として入団し、1年目の89年から1軍でプレー。89年10月10日ヤクルト戦(神宮)では10三振を奪ってプロ初勝利を挙げ、この試合で加藤からプロ初安打も記録。2000安打を達成した選手のうち1軍で登板経験があるのは川上(巨人)広瀬(南海)柴田(巨人)に次いで4人目。白星を挙げて2000安打は川上と石井の2人しかいない。また、ドラフト制後に入団した選手では18人目になるが、ドラフト外は秋山(ダイエー)に次いで2人目だ。

▼石井の守備位置別試合数は遊撃1411試合、三塁403試合、投手28試合、外野8試合。遊撃が最多で2000安打は藤田(阪神)野村(広島)に次いで3人目。ただし、藤田と野村は12、13年目頃から一塁や三塁へコンバートされ、2000安打達成時も遊撃手は石井が初めてだ。石井は本塁打がまだ90本だけ。通算100本塁打より通算2000安打を早く達成したのは新井(近鉄)に次いで2人目と珍しい。1発は少ない代わりに、多いのが足で稼いだ内野安打。リーグ最多を6度記録するなど、内野安打は現役最多の合計325本。俊足を生かすための野手転向が成功した石井は、投手で出発しながらスピード歴代8位の出場1839試合で2000安打に到達した。

※記録、表記は当時のもの