阪神で長らく投手コーチを務めた久保康生氏(63)は、独自の視点で好投手を育てた名伯楽だ。

10年に阪神入りしたランディ・メッセンジャーを、NPB通算98勝に導いた。来日直後の右腕は、中継ぎで打ち込まれ2軍へと降格。そこから見事に立ち直らせた裏には、敏腕コーチならではの目利きと度胸があった。【高野勲】

◆久保康生(くぼ・やすお)1958年(昭33)4月8日生まれ、福岡県出身。柳川商から76年ドラフト1位で近鉄入団。88年途中に、中谷忠己外野手との交換トレードで阪神に移籍。96年途中に金銭トレードで近鉄に戻り、97年に引退。通算550試合に登板し、71勝62敗30セーブ、防御率4・32。現役時代は178センチ、83キロ。右投げ右打ち。阪神では05~11年に1軍、13~17年に2軍で投手コーチ。ほかに近鉄、ソフトバンクでもコーチを務めた。現在は奈良県の社会人野球チーム「大和高田クラブ」アドバイザー。


2010年(平22)2月1日、沖縄・宜野座キャンプ初日。来日1年目のメッセンジャーがキャッチボールを始めると、1軍投手コーチの久保は思わず顔をしかめた。

2010年阪神春季キャンプでメッセンジャーに軸足でしっかり立つ練習を行う久保康生コーチ
2010年阪神春季キャンプでメッセンジャーに軸足でしっかり立つ練習を行う久保康生コーチ

「これはまずい。日本では勝てない」


腕の振りが横殴りで角度がなく、打者の目線に合う軌道を描いていた。198センチの長身を、全く生かしていない。たとえどれだけの速球を持っていても、バットさえ出せば簡単にヒットにされる。新助っ人の今後を危ぶんだ。


しかし久保は矯正に乗り出さなかった。メッセンジャーに、あえて自己流で勝負させた。


「野球の本場から来た、ガリバーみたいな大男です。自尊心もありますから、私が何か言ったところで耳を貸すはずなどありません。実際に打たれるまで、そのままにしておきました」


抑えの藤川球児につなぐ7回または8回を任せる存在として、メッセンジャーは阪神にやってきた。


前任の左腕ジェフ・ウィリアムスの背番号54も受け継いでいた。ところが久保の見立て通り、シーズン序盤で何度も痛打を浴びた。


文字通り決定打となったのは、4月15日巨人戦だった。阪神1点リードで迎えた7回途中から救援に立ったメッセンジャーは、坂本勇人に逆転満塁本塁打を打たれた。同23日には2軍落ち。このとき11試合を投げ、防御率は5・79。中継ぎ失格だった。

10年4月15日、巨人戦の7回2死満塁で坂本勇人にレフトへ逆転満塁弾を浴びたメッセンジャー
10年4月15日、巨人戦の7回2死満塁で坂本勇人にレフトへ逆転満塁弾を浴びたメッセンジャー

久保は振り返る。


「これでやっと、私たちの意見を聞き入れる土壌が整いました。『君の腕の振りは打者の目に平行に出てくるから、とても見やすい。非力な打者でもバットを合わせれば、勝手に打球が飛んでいく。だから何かを変えないと』と語りかけました。長いイニングを投げて日本の野球に慣れさせることが必要だと思い、先発で使うよう2軍スタッフに頼みました」


久保はメッセンジャーに、カーブを軸に投球を組み立てることを命じた。縦の変化を意識することで、体の傾きと手の位置が分かり、腕の位置もおのずと高くなる。その角度で直球も投げ下ろせ―。そんな意図があった。


異国の地で後がなくなったメッセンジャーは、素直に従った。ネットピッチングを根気よく続け、フォームを固めた。

10年9月、試合前にメッセンジャーを指導する久保康生コーチ(手前)
10年9月、試合前にメッセンジャーを指導する久保康生コーチ(手前)

また久保は、ホワイトボードに初球から3―2まですべてのボールカウントを書き、状況に応じた投球の大切さを説いた。


「2軍での急成長を見て『これは大化けする』と大きな期待を持ちました。巨体を有効に使うフォームに激変していました」


1軍に戻ってきたメッセンジャーを、甲子園のブルペンでチェック。長身を最大限に生かした角度のある剛球は、春先の打ちごろの高さの棒球とは、雲泥の差だった。

阪神対横浜10回戦 阪神先発のメッセンジャー(撮影・河南真一)=2010年7月11日、甲子園球場投球フォーム
阪神対横浜10回戦 阪神先発のメッセンジャー(撮影・河南真一)=2010年7月11日、甲子園球場投球フォーム

7月11日、甲子園での横浜(現DeNA)戦で先発起用。6回を2失点にまとめ、来日初勝利を挙げた。これを皮切りに、先発で5勝。メッセンジャーは2年目の契約も勝ち取った。


ここからのメッセンジャーの大活躍は、多言を要しない。日本通算98勝は外国人5位。1475奪三振、開幕投手6度はともに助っ人最多だ。

阪神対横浜10回戦 来日初勝利しガッツポーズするランディ・メッセンジャー(右)とクレイグ・ブラゼル(撮影・上田博志)=2010年7月11日、甲子園球場幕切れ 歓喜 祝福 ヒーローインタビュー お立ち台
阪神対横浜10回戦 来日初勝利しガッツポーズするランディ・メッセンジャー(右)とクレイグ・ブラゼル(撮影・上田博志)=2010年7月11日、甲子園球場幕切れ 歓喜 祝福 ヒーローインタビュー お立ち台

「日本で絶対に成功するという気概が強かったのが彼の成功につながったと思います。自分を変えないのもプライドならば、変えるのもプライドです。私が2軍コーチだった頃、練習ではストッキングを上まで上げるのが決まりでした。メッセンジャーが2軍の練習に合流したときには『君は好きにしていいよ』と例外を認めたのですが『俺は今はファームの一員だ』と、周りに従う素直さも持ち合わせていましたよ」


メッセンジャーを変貌させた久保の手腕は、若き日の自身の経験が土台にあった。

1982年、近鉄時代の久保康生の投球フォーム
1982年、近鉄時代の久保康生の投球フォーム

近鉄(後にオリックスと合併)で高卒3年目を迎えた79年の夏に、日生球場でストレッチしていたときのことだ。「お前、このままやったら駄目やぞ」と声が聞こえてきた。振り返ると、監督の西本幸雄がノックバットを持って立っていた。


同年9月には、米国フロリダ州での教育リーグに派遣された久保は、名将の言葉を糧に成長を遂げる。


「せっかくアメリカまで来たんだから、今までと正反対のことをやってやろうと思ったんです」


日本では「下半身を使え」「体全体で投げろ」と教わってきた。そこであえて、外国人投手に多い「手投げ」を試してみた。これが効果的だった。


手を主導に投げるには、足腰を踏ん張らなければならない。下半身がおのずと安定しはじめた。すると今までにないほど球が指にかかり始めた。帰国する頃には、久保はもう別人だった。


翌年80年に久保はプロ初勝利を含め8勝で、チームの2連覇に貢献。82年には12勝と、エース格へと成長した。メッセンジャーをはじめ、岩隈久志らを好投手へと覚醒させた名伯楽の原点は、ここにあった。

メッセンジャーの急成長を促した久保氏。ソフトバンクコーチ時代に引退のあいさつを受けた(本人提供)
メッセンジャーの急成長を促した久保氏。ソフトバンクコーチ時代に引退のあいさつを受けた(本人提供)

自尊心を保たせ、助言を受け入れる状況を作り上げ、的確に指導を行う。球史に残る名助っ人投手誕生の陰には、久保の冷静さと分析能力、そして若き日の経験から来る大局観があった。(敬称略)

名伯楽としてメッセンジャーら好投手を育てた久保氏(撮影・高野勲)
名伯楽としてメッセンジャーら好投手を育てた久保氏(撮影・高野勲)