中西太さんが阪神監督を務めた1年目が新人イヤーだった岡田彰布監督(65)は、恩師の訃報にショックを隠せなかった。

ブレイザー監督の辞任を受けて80年5月に就任すると二塁で起用され、スター街道を歩む道筋をつくってくれた。悲しみを胸に指揮を執ったこの日の中日戦も快勝し、今季最多の貯金10で首位をがっちりキープ。亡くなった11日から7連勝という巡り合わせを知り、18年ぶり「アレ」への決意を新たにした。

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バンテリンドームで中西さんの訃報に接した岡田監督はショックを隠せなかった。「突然やけど。(亡くなったのは)11日らしいな。全然知らんかった」。現役時代は「怪童」で一時代を築き、指導者として「名伯楽」とうたわれた中西さんは、自身をスターに押し上げてくれた恩師だった。

79年に6球団競合のドラフト1位で阪神に入団。だがブレイザー監督は「いくら力があっても、新人はすぐに使わない」方針で、チャンスを与えてもらえなかった。理不尽な通告が理解できない日々…。米国アリゾナキャンプで、打撃コーチとして熱血指導してくれたのが中西さんだった。「もう職人というかな。夜ネット張って庭で。スポンジボールで至近距離からティーをやるのが毎晩の日課やったかな」と懐かしそうに話した。「本当にもう近くからポッとティーを上げるから(中西さんの)指先を何回かバットで打ったことあるわ」。体を張った指導で打撃を教えてくれた。

転機は80年5月15日。ブレイザーが解任され中西さんが新監督に就いた。当時の日刊スポーツ紙面に「あれだけの素質。磨けばもっともっと光る」と新人岡田への期待のコメントが載っている。このタイミングで故障離脱していた掛布が三塁に復帰し、岡田はスタメン二塁に固定された。そして中西監督2戦目の5月18日巨人戦(後楽園)。岡田は2回に豪快な5号3ランを放ち、新監督に初勝利をプレゼントした。「4月末くらいからスタメンでは出とったけど、それ(中西監督体制)からは7番、6番になって最後は5番やったかな」。チャンスに飢えていた男は、打ちまくった。球宴では代打本塁打を放ち、シーズン成績は打率2割9分、18本塁打、54打点。新人王を獲得し、スター街道を歩む道筋をつけてくれたのが中西さんだった。

オリックスに移籍した現役最後の95年は中西ヘッドと再び共闘。阪神・淡路大震災からの復興へ「頑張ろう神戸」の合言葉で、リーグVの歓喜を味わった。阪神監督1年目の04年オフには、倉敷秋季キャンプに当時71歳の中西さんを臨時コーチで招聘(しょうへい)。鳥谷や赤星らの若手を鍛えてもらい、05年のリーグ優勝に力を貸してくれた。

特別な思いで臨んだ中日戦は、一丸快勝で今季初の7連勝&最多の貯金10。「(もう)報告できんやん。そんなん。1週間前に亡くなってて」と悲しみをこらえた。それでも、死去した11日から7連勝と聞くと、少し笑みを浮かべてバスに乗り込んだ。天国に届ける「アレ」への思いはさらに強くなった。【石橋隆雄】

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