広島で通算213勝を挙げ、球団初の名球会投手となった北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日午後0時33分、広島市内の病院で亡くなった。65歳だった。通夜、告別式は未定。

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北別府さんは孤高のエースだった。常に背番号20が大きく見えた。この姿を保つため、彼はいつも「ひとり」だった。「人と話したり、関わったりするのが苦手で、嫌だった。だから、ひとりでいることが多かっただけ。ワシは田舎者やったからね…」。ニコッとした彼の顔を思い出す。

鹿児島県の田舎町に生まれ育った。高校は宮崎の都城農。地域では知れた存在だったが、中央球界では無名。甲子園に行くことはなかった。それでもドラフトで広島が1位に指名して、野球ファンを驚かせた。

「体が大きくて、それでいて柔らかかった。故障しない投球フォームで、無限の可能性を見た。何より心がよかった。負けず嫌いで、それでいて耐えることのできる青年だった。田舎で育ったのびやかさと、それに反する頑固さというのか。本当に魅力にあふれた18歳だった」。当時、担当し、北別府さんを強く球団に推したスカウトから聞いた話だった。

針の穴を通す…と制球力を称され、スピードがなくても勝てる投手の代表格となった。しかし、北別府さんは言葉少なに反発した。「スピードがない? それは違う。十分通用するスピードがワシにはあった」。だが若い投手の躍動する姿に、コントロールで生きることを決めた。

津田恒実がバースをストレートで空振りに仕留める。紀藤真琴が原辰徳の手首を痛めつけた。「さすがにあれはマネできん」と悟った。1986年(昭61)、制球力を武器に18勝をマークして沢村賞に輝いた。話をするのが苦手で、孤高を守ってきた北別府さんが、そのシーズンの優勝決定試合で見せた行動が忘れられない。先発して8回を投げ終わり、胴上げ投手になるはずが、自ら時の監督、阿南準郎に申し出た。「この優勝はツネ(津田)がいたから。最後はツネに投げさせてください」。

あれから36年。生きるコントロールを奪った病魔が、本当に憎い。【内匠宏幸】(1986年~1988年カープ担当)