日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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かつては阪神タイガースが優勝すると日本経済の景気が上昇すると言われた。1980年代はプロ野球がお茶の間の中心だった時代だった。85年(昭60)の阪神優勝は日本列島を揺るがした。社会現象になって、世の中がバブル期に向かっていくのだった。

その転換期に指揮をとったのが、吉田義男(日刊スポーツ客員評論家)だった。現役時代に62年、64年と2度のリーグ優勝を経験し、85年は阪神監督として球団唯一の日本一監督に上り詰める。吉田は「隔世の感がありますな」と遠くに視線をやった。

「あの日本一から、もう38年が経つんですな。この間、何度もチャンスはあったはずだから信じられませんわ。85年も圧倒的に勝ったかのように伝えられますが、いろんなことが起きてわたしには激動の印象が強いんですよ」

チームが後半戦に突入すると、8月12日に御巣鷹山の日航機墜落事故が起き、球団社長の中野肇が巻き込まれる。中日戦を終えた平和台から東京への移動日となった日だった。動揺した吉田が「勝って報いるしかない」と覚悟を決めた日でもあった。

西武との日本シリーズ第1戦は、バースの3ランで池田が6安打完封。第2戦もバース2ランで逆転し、ゲイルから福間、中西のリレーで逃げ切って連勝する。ただ甲子園に舞台を移した第3戦を中田で落とし、第4戦も9回に福間が“左キラー”の西岡に決勝2ランを浴びて敗れる。

吉田が「第5戦がカギだった」と語ったのは、継投がポイントだった。第5戦の4回1死満塁、西武監督の広岡は再び代打西岡を告げたが、吉田は前日被弾されていた福間を代えずに遊ゴロ併殺で切り抜けたのだ。

王手のかかった第6戦は、長崎が逆風を切り裂く満塁本塁打を放って押し切った。阪神が4勝2敗で、球団史上初の日本一。吉田は秋風が吹いた西武球場で宙に舞い、敗将の広岡はその座を退くのだった。

「あのシーズンも大がかりなコンバートの戦略がはまるんですよ。岡田の二塁転向が成功し、選手会長としてもリーダーシップを発揮してくれました。真弓、掛布、バース、平田、木戸、中西…。佐野もいて、嶋田宗、長崎、弘田、中田、和田、池田と…。なつかしいですな」

愛弟子の岡田がオリックスに勝ち越し、頂点に王手をかけた。吉田から、岡田へ--。38年ぶりの日本一によって、阪神の伝統が引き継がれる瞬間がやってくる。(敬称略)