日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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阪神の優勝で多忙なのは、監督、選手だけではない。85年日本一監督の吉田義男も取材のハシゴ、ゴルフと祝賀会に引っ張りだこだ。恐るべき90歳。“妖怪ウオッチ”をしている気さえしてきた。

ヒラリ、ヒラリ…と華麗にプレーすることから「牛若丸」と名付けられた名遊撃手は、とても卒寿を迎えた人とは思えない。「わたしは130歳まで生きたい」と宣言して周囲を卒倒させた。

そのレジェンドが古巣のOB会に駆けつけたときのエピソードだ。「今年は内野手をほめてあげなあきませんわ」。そう言い残して表彰式に出席した後輩たちに近寄った。

史上最強のショートストップと評されるだけあって、声を掛ける内容は“職人”らしく、独特だ。「ちょっと手を見せてみぃ」。二塁転向1年目にゴールデングラブ賞に輝いた中野に話しかけた。

「もっと大きいかと思ったら、意外と小ぶりでした。杉下さん、村山、野茂、大魔神(佐々木)らフォークの名人が大きいと投げやすいのと同じで、野手もどちらかといえば大きいほうがいい。中野の手が小さめなのは天才的と言えるかもしれんな」

吉田のプロ1年目だった1953年のシーズン192併殺は、今も日本記録だ。監督として日本一に導いた85年日本シリーズ6戦で9併殺は最多タイ。特に二遊間コンビの守備力には厳しい。

ゴールデングラブの遊撃部門で初受賞になった木浪と対面した吉田は「特に後半は三遊間に強くなった」と評価しながら手をとる。

「やっぱりマメだらけでした。なるほどこの手が活躍したんやな。よぉ練習したのがわかります。昔、藤本勝巳が自主トレでマメだらけになったのを覚えています。そしたらやはり本塁打王をとったんです」

一塁で初受賞の大山を目の前にすると「サード掛布が一流に育ったのは、一塁手で受け皿になったハル・ブリーデンの存在が大きかった」と分析した。

「チームにとって大山の守備は大きな力になりました。『来年は35本から40本は打てよ』といったら、本人は『へーっ!』と驚いていましたわ。坂本とも話したかったですね」

とにかく吉田はマメの出来映えで活躍をはかるようだ。センターラインを守り抜いて盗塁王、ゴールデングラブ賞の近本の手に触れた後で「両手にマメがいっぱいでした。一番は近本でしたわ」と納得顔だった。

現役時代の吉田は、毎晩風呂に浸かって、右手先を振りながら「風呂の底でやるほどきついんです」と指先が手首につくまで柔らかさを求め続けたという。

後輩たちのパフォーマンスに手応えをつかんだ伝説の男、初代日本一監督は「努力は正直。必ず報われますわ。このオフは大事でっせ」と早くも連覇に向けてその気になっている。(敬称略)