先月15日に肺がんで死去した司会者、俳優の愛川欽也さん(享年80)の妻でタレント、うつみ宮土理(71)が10日、東京・中目黒の劇場キンケロ・シアターで会見した。
「まだ信じられない。心の中に大きな穴がぽっかりあいたよう。その穴を埋め尽くせないまま、ここに座っています。愛川とは毎日毎日、笑いあってすごしていました。こんなに人生が、悲しくて、つらくて、さみしくて、いとおしくて…。一緒に同じ天国に行ってしまえたら、と何度も何度も思いました。愛川が映画や舞台で訴えたかったのは、平和でした。昭和9年生まれの愛川は、戦争でたくさんの物を失ってしまった。親戚をたどってなんとか生き延びたそうです。だから私も愛川の遺志を継いで、平和を、憲法9条を守りたいと思います。『小さな子どもたちのためにも、これから怖い日本にならないように頑張りましょうね』と(愛川さんが)言っている声が聞こえます。本当にキンキンが愛したキンケロ・シアターに集まっていただき、ありがとうございます」
-入院生活期間は
「自宅療養です。はじめから入院はしてません。私と2人で頑張りました」
-最後の状況は
「言えますか? 言えません。悲しすぎて…そんな質問は酷です」(声を大にして、大粒の涙を流しながら)
-結婚生活は
「全部が幸せでした」
-今、愛川さんのどんな言葉が聞こえてくるか
「『泣くなよ。笑ってよ』と言ってる気がします。でも、笑えません」
-亡くなってからは、どのように過ごしていたのか
「思い出せないほど、悲しくて、つらくて。遺骨を抱いて寝てました。遺骨が置いてある所に行くと、『何で死んじゃったの?』(と思う)。それからは遺骨をベッドに運んで一緒に寝ています」
-愛川さんは、うつみのそばで闘病したいという気持ちだったのか
「入院という考えは、頭にチラとも浮かびませんでした」
-なぜか
「当たり前だからです。自宅で私の隣で、頑張って元気にさせたかった」
-自宅療養には愛川さんの意志もあったのか
「何も聞いていません」
-選択肢として入院もあったのではないか
「病院に行ったら、治るものですか? (声を荒らげて)愛川は家が好きだったから。私の横にいることが好きなのを知っていた。家に来てくれるお医者様と一緒に頑張りました。ずっと、手を握ってました」
-愛川さんはギリギリまで仕事を頑張って、こられたのですね
「ギリギリまでです。痛いという言葉は聞いたことはありません。強い人でした」
-どのように、愛川さんを仕事に送り出していたのか
「『行ってくるよ』と明るいキンキンだった。『頑張ってね』と言うと、『おう』って」
-元気がなくなられたのはいつごろか
「あまりにも悲しくて、つらいので。何にも覚えてないです」
-愛川さんが亡くなってから外出は
「今日が初めてです」
-気持ちの切り替えはできそうか
「これから、この会見が終わってから。これからお別れ会(日程未定)が終わってから。ありがたいことに、兄弟、家族はいつも家にいてくれる。ありがたいです」
-4月15日から17日は、愛川さんの遺体と自宅に一緒におられましたが、どうでしたか
「どうでしたかって? 亡くなったんですよ。悲しさを知らないから聞けるのでしょう」(語気を強める)
-あらためて結婚生活は
「本当に愛川欽也と結婚できて、最高の幸せでした。私と結婚してくれてありがとう。今はキンキンに感謝です」
-愛川さんは「同志」という言葉も使われていたが
「あれは男の人の表現。インタビューの時しか使ってない。同志でも何でも私はキンキンと一緒にいられさえすれば、よかった」
-今後は何を支えに生きていくか
「支えがないと思ってらっしゃるんですか? 支えというのはもちろん、一番愛した人の心の中に潜んでます。キンキンと家族と。これからキンキンが教えてくれると思います」
-最後に
「今日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。満員御礼でキンキンも喜んでると思います。(今後も)こちらで舞台で映画、芝居などをやっていくと思います。(愛川さんが)『これからも今日みたいにたくさんの取材を受けられるといいな』と言っている気がします」
会見中に横に置かれていた、愛川さんが監督、主演を務めていた「港古志郎シリーズ」の撮影中に今年1月撮影されたという写真を胸に抱え、退出した。