女子サッカーを国民に認知させた佐々木則夫監督(57)が、「なでしこジャパン」の監督退任を表明した。北朝鮮に1-0で勝ち、125戦目を勝利で終えた。07年12月就任から9年目。リオデジャネイロ五輪出場権獲得はならなかったが、11年W杯ドイツ大会初優勝、12年ロンドン五輪銀メダル、15年W杯カナダ大会準優勝。FIFA(国際サッカー連盟)女子最優秀監督賞も受賞するなど、功績は揺らぐことはない。

 佐々木監督は試合終了の笛を聞くと、拍手で選手をたたえた。表情に笑顔はなし。試合後の会見も神妙な面持ちで席に着き、19年W杯フランス大会、20年東京五輪に向けた、なでしこへメッセージを贈った。

 「ここで切符が取れなかったのは僕の責任。退任するどうこうで許されることではないけれど、しっかりと責任をとって、新たな、なでしこジャパンを作り上げていってもらいたい」

 敗退したものの、25歳以下のFW岩渕、MF中島ら、次世代を担う若手が結果を出した。「リオの権利を取れなかった結果を、変革するいいきっかけにしてもらいたい。将来への可能性はある。もう少し早く機能させてあげられれば良かったが、それも私の責任」。長期政権中、世代交代は最大の悩みだった。

 06年1月にコーチに就任し、07年に監督昇格。就任後、最大の英断は当時FWやトップ下だった澤を、守備的MFにコンバートしたことだった。システムも「4-4-2」に変更。「危険なところを察知できる守備的能力を生かして欲しい。そこから攻撃が始まる」と諭したところから、栄光への道が始まった。

 印象に残る試合も初めて指揮を執って全勝した08年東アジア杯初戦の北朝鮮を挙げた。「澤のループシュートも入って優勝して、選手も『いけるじゃん』ってなった。W杯優勝とかもあるけれど、スタートと今日の試合の印象が残る」。次第に笑顔が戻ってきた。

 もう1つの夢がある。男子サッカー界でも成功を収めることだ。今後はJ1大宮のフロント入りすることが確実。将来的に男子監督で失敗する可能性もあるが「そんな後ろ向きじゃ、何も成功できないだろ」と前を向く。育てあげた娘たちを嫁に出す父親の心境だろうか。「(女子サッカー界に)あまりウロウロしないほうがいいんじゃないかな。でも離れたとしても、気になることは間違いない。必ずや再び、W杯、五輪で勇気や元気を与えてくれると思う。リオでもノリオマジックで金メダルとりたかったんだけどなあ」。最後はノリオ節で別れを告げた。【鎌田直秀】

 ◆佐々木則夫(ささき・のりお)1958年(昭33)5月24日、山形県尾花沢市生まれ。東京・帝京高で主将として高校総体優勝、選手権4強。明大を経て電電関東(現大宮)入り。91年に現役引退後、NTT関東監督、大宮の強化育成部長とユース監督を歴任。初采配となった08年2月の東アジア選手権で女子代表史上初の国際大会優勝に導いた。08年北京五輪4強。10年広州アジア大会優勝。175センチ。家族は夫人と1女。