「日本代表の試合は見たことがないです」。1990年代半ばにバスケットボールの全国選抜優勝大会で取材した有力選手の発言は、今も印象に残っている。

当時の日本は五輪も世界選手権にも手が届かなかった。多くの高校生たちの目標は総体や選抜大会で勝ち、大学や実業団でプレーを続けること。サッカーやバレーボールと比べて“世界”への関心は薄かった。

風穴をあけたのが能代工で9冠を達成し、高校生初の全日本代表候補に選ばれた田臥勇太。卒業後は大学や実業団の誘いを断り、米ブリガムヤング大ハワイ校に進学。身長173センチと小柄な体で、NBAプレーヤーという途方もない夢に挑んだ。

3年半で大学を中退して日本リーグのトヨタ自動車に入ったが、1年後に再渡米すると独立リーグで結果を残し、04年についにNBAのサンズと契約。同年11月、日本人として初めてNBAのコートに立った。

あれから19年。日本がW杯で48年ぶりに自力でのパリ・オリンピック(五輪)出場を決めた。チーム唯一のNBAプレーヤー、渡辺雄太の感涙を見ながら、田臥のことが遠い残像のようによみがえった。

渡辺も尽誠学園卒業後、周囲の反対を押し切って、ジョージ・ワシントン大に留学した。進路に悩んでいたころ、渡辺の父英幸さんに電話をかけて「絶対に行かせてください」と伝え、背中を押したのが田臥だった。その後、八村塁、W杯代表の富永啓生らが続き、今では海外挑戦組も珍しくなくなった。

一方で国内の環境も劇的に変化した。90年代まで実業団選手の大半はサラリーマンとの兼業だったが、16年にプロのBリーグが誕生。福岡第一高時代にB1最年少出場を果たした河村勇輝をはじめ、若き才能を引き上げた。

その河村は小学生の頃から田臥のプレーを毎晩DVDで見て目に焼き付けたという。「ポイントガードの役割、楽しくバスケをプレーする姿、パスのバリエーション、プレーの創造力が、自分の中で培われたと思います。間違いなく田臥選手を追って今の僕のバスケ人生はあります」(スポーツゴジラ51号)。

日本の48年ぶりの快挙は、あの田臥の孤独な戦いと、間違いなく線でつながっているのだ。20年の歳月とともに、彼が果たした功績の重さを、あらためて実感した。そして、田臥の切り開いた道を歩んできた河村や富永たちのまぶしい笑顔が、その先に訪れる、日本バスケットボールの未来を明るく照らしているように見えた。【首藤正徳】

バスケットボール男子日本代表・国際強化試合、リポートする田臥勇太(左)と田中圭(2023年8月17日撮影)
バスケットボール男子日本代表・国際強化試合、リポートする田臥勇太(左)と田中圭(2023年8月17日撮影)