運命の日は突然やってきた。1956年5月の連休明け。創部1年目の国士舘大学サッカー部はいつものように世田谷のグラウンドで必死で汗を流していた。部員13人でサッカー経験者は2人。残る11人は部存続のため、柔道部と剣道部の補欠選手を主として他の部からかき集めた素人軍団。練習メニューなどは、主将の私が決めていた。

グラウンド入り口の鉄柱に身を寄せて練習を眺めている初老の男性がいた。ボールがそこに転がり、私はそのボールを取りに走った。

おじいさん ねぇ、ねぇ、君。このチームのキャプテンは誰?

私 私です。

おじいさん このチーム弱いでしょう。

この短い会話が、あの人との初コンタクトだった。チーム存続のため、未経験者を集めたチーム。「弱い」を強くしたい一念で、日が暮れるまで練習しているのに「弱い」と言われれば、当然頭にくる。「なんだ、このくそおやじ!」。19歳の青年と65歳のおじいさんの出会いは、気持ちのいいものではなかった。

その後もそのおじいさんは、毎日、グラウンドの脇で練習を見守った。がっちりとした体格で、低いトーンの小声、とても怖い顔。髪はボサボサでいつもジャケットを羽織っていた。鉄柱に身を寄せたり、腕を組んだり。近所の暇なサッカー好きの怖いおじいさんだと思ったが、体格からはとてもサッカー経験者には見えなかった。

ボールが、おじいさんの前に転がるたびに声をかけてくる。ハーフラインから2人でパス交換して、シュートでフィニッシュする練習を繰り返している時だった。

おじいさん 今、何の練習をしているんだ?

私 パスしてシュートする練習です。

おじいさん 味方にパスするのはなぜ?

私 敵がボールを取りに来るからです。

おじいさん 今の練習で誰もボールを取りに来ないじゃん。自分だけ行ってシュートした方が速いし、ゴールできるでしょう?

私 試合では相手がいますから。

おじいさん それなら、今の練習でも相手がいた方がいいんじゃないの?

納得。おじいさんは5月末まで、約20日間、練習を見守ってくれた。私の印象は、イヤなおやじから面白いことを言うおじいさんに変わっていた。

サッカー部の練習は午後2時20分から日が暮れてボールが見えなくなるまで。当時は、どの学校も4時間以上の練習は当たり前だった。練習の量は成績と比例すると信じていた時代だ。

おじいさん まだやってるの?

私 弱いですから。

おじいさん 人間には集中力が継続できる時間があるんだよ。短い時間でちゃんとやった方がいいよ。

体の特長を生かすことも伝えてくれた。決められたルール、環境の中で自分の特徴をいかに生かすか。その重要性も教えてくれた。

おじいさん 今、日本で一番強いスポーツは何だと思う?

私 卓球です。

おじいさん そうだろう。でも卓球台が1寸(3・03センチ)高くなったら、日本は勝てなくなるよ。

私 えっ?

おじいさん 体格の大きい人はあの卓球台の高さだと、あまり攻められないよ。だから欧米の選手はカットするスタイルばかりなんだよ。

6月になると、そのおじいさんは来なくなった。「おじいさん来ないなぁ」。グラウンドの入り口を確認する日課は続いた。5月の20日あまりの期間は、今思うと、幸せな時間であり、神様からの大きなプレゼントだった。その後、1度もおじいさんには会ったことがない。

後日、若い教員から言われた。「君、前にグラウンド脇で君、岡部先生と話し込んでいたね」と。私は「えっ、岡部先生って誰ですか? あの人はうちの大学の教員だったんですか?」。「君、知らなかったの。岡部先生はスポーツの神様なんだよ」。岡部平太。その年に国士舘短期大学の教授に就任した。残念だが、岡部教授の授業を受けたことはない。

のちに、岡部さんの著書を読みあさった。日本人の特徴として「(1)一年中、同じ練習ばかり繰り返す。(2)練習時間が長すぎる。(3)形にこだわる。バットの振り方やシュートなど。(4)オーバーコーチ。教えすぎている。選手が自分で考える余地を残さない。(5)相手を意識しない練習が多い」と、その改善策などが書かれていた。

あの20日間あまりで、岡部さんから直接言われたことが書かれていて、ページが進むにつれて納得する自分がいた。「なんであの時、ペンとメモ用紙を持って岡部さんの話を聞かなかったのか」と後悔もした。今、私が後進に伝えているコーチングは、岡部さんの金言が主となっている。

87歳の私。もし願いがかなうなら、亡くなった親と同じくらい、岡部さんにもう1度会いたい。短い時間でもいいから、メモ用紙を持って話をしたい。かなわない夢と分かっているが、岡部さんの言葉をきちんと記録して後世に残したい。

(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)

(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サッカー人生70年 国士舘大理事長 大澤英雄」)