夢のワールドカップ(W杯)出場が現実のものとなった。「闘病インフルエンサー」でフットゴルファーの柴田晋太朗選手(神奈川県厚木市)が、日本A代表として世界の檜舞台に立つ。
■5月末から米国フロリダで開催
ゴルフ場で18ホールを回り、サッカーボールを蹴りカップインする打数を競うフットゴルフ。近年は欧米を中心に人気が高まっており、2028年のロサンゼルス・オリンピック(五輪)で追加種目となることも期待されている。
そのフットゴルフの日本ツアー(22年8月~23年3月、全14戦)において、柴田選手は第3戦の静岡カップ(22年9月25日)で優勝するなどし、ポイントランキング6位に付けた。3月31日にW杯出場メンバーが正式に発表され、晴れて上位10人の「A代表」の座を最年少の23歳にしてつかんだ。
23年FIFG(国際フットゴルフ連盟)W杯オーランド大会。米国フロリダ州を舞台に今年5月27~6月6日の日程で開催される。そのW杯で個人戦と団体戦の両方に出場する。ちなみに今回のランキング1位は、J1鹿島アントラーズなどで活躍した元日本代表の青木剛選手だった。
「うれしさ、感謝の思いは湧き出てきました。ようやく自分がイメージしていたフットゴルファー像に現実が追いついた。ただ、代表は通過点でしかないと思っています。ならないと先には進めませんから」
そう言うと柔和な笑みを浮かべた。
はたから見ればいたって健康的な若者だが、骨に発生する希少がん「骨肉腫」による壮絶な闘病生活を経て今に至る。
肉体は大きな障害を抱える。それでいて健常者の競技に真っ向勝負を挑み、「日本A代表」を手にした。これを偉業と言わずして何と言うか。
■再発、転移で手術受け肺を切除
サッカー少年だった柴田選手は小学3年生から名門、横浜F・マリノスプライマリーでプレー。中学時代は地元のFC厚木ジュニアユースDREAMSの「10番」として関東大会にも出場した。
進学した日大藤沢高校2年の夏、神奈川県U-17選抜の主将として韓国遠征に参加。そこで右肩の激痛に襲われ、帰国後の受診で「骨肉腫」が判明した。以降、苦難の連続だった。
手術で右上腕部に人工関節を入れ、右腕は肩より上に上がらなくなった。生死をさまよった。再発、転移を何度も繰り返し、左肺の上葉を全切除。生き抜くことで精いっぱいだった。
プロサッカー選手という目標は、はかなくも散った。20歳の時、気分転換にと誘われ、出合ったのがフットゴルフだった。
「これだったら右腕が上がらなかったり、体が不自由でも世界を目指して戦えるんじゃないかな」
サッカーでかなわなかった「世界」への挑戦。持ち前の闘争心に火がついた。
ちょうど病気も落ち着いた。周囲のサポートも受け、フットゴルフに真剣に向き合った。元来の負けず嫌い。日々の練習、研究を欠かさず、めきめきと頭角を現した。
今やフットゴルフへの思いは誰よりも熱い。
「最後のカップに入れるのがフットゴルフ、18ホールの結果がすべてです。1つ1つのキックを完璧にこなさなければいけないものではない。サッカーで本当にキックが上手な人はそこを求めちゃうし、どうでもいいところにベクトルが向いてしまう。18ホールそんなことやっているとうまくいかないし、勝てない」
何より、その競技の真髄は「メンタル」。物事に動じない心がベースにないと戦えないのだという。
サッカーの要素と言えば、「ボールを蹴るという表面的な動作だけ。フットは本当におまけみたいなものです」と説明する。
■19歳から講演活動、伝えたい思い
現在は病気も根治し、半年に1回の定期検査を受けるのみ。その日常生活はサッカースクールでのコーチ業と、健康管理事業の「株式会社ウェルネスリーダーズ(櫻井洋輔社長)」で働きながら経営についても勉強中。その目指す経営者への道は、フットゴルフにも通じているのだという。
「今年は売り上げが絶好調だけど翌年は絶不調、この繰り返しではダメなんです。1センチでもいいから右肩上がりを続けていくことが大事。18ホール通してのフットゴルフの戦いはまさにそう。バーディー取ったから『やったー』、でも次ボギーだったからと、それを引きずって次はダボとか。そんなことを繰り返していたら優勝なんてできるわけがない」
相手でなく、自分にベクトルを向ける。己との対話を続けた先に勝利がある。「人間が磨かれる」スポーツなのだと実感している。
「AYA世代」。思春期から若年成人のがん闘病者を指す言葉である。そのAYA世代として自らの体験を届けようと、19歳から企業や学校で講演を続けている。伝えたいことの本質はシンプルだ。
「今を生きることに全力で、集中して、今を楽しみ抜こう」
100万人に1人という骨肉腫の発症率。お世話になった東京のがん専門病院には、同世代の若者が各地から集まっていた。誰もが明るさを失わず、自分の未来を信じていた。だが、多くの仲間はこの世を去った。その無念さを知るからこそ、「今を生きる」尊さをかみしめる。
くしくもサッカーの本田圭佑選手が3月、近畿大の卒業式に登場し、学生たちに独特な言い回しでエールを送った。
「いつかは死ぬ。生きたいように生きろ」
表現は多少異なれども、後悔しない生き方を促すという意味では共通するものだった。
「(人の心に響くかは)誰が言うかによると思う。スティーブ・ジョブズだってそう。がんで余命宣告された中、(スタンフォード)大学で演説したから響いた。本田さんだって、死ぬまではいかなくとも、いろんな修羅場をくぐってきた人だから言葉に重みがある。それをやり続けている人でもあるし、それはその人が経験しているから言葉に乗っかる。だから他人に響くんです」
■最期まで自分の生き方貫いた祖父
この3月には大事な祖父を亡くした。東大在学中の1960年(昭35)に安保闘争に関わり、その経験から「人権を守る」弁護士となった人物だ。
その祖父は命尽きる瞬間まで、その職務を全うした。いつでも仕事ができるように病室にスーツを持ち込み、掛けていた。実際、3月末に法廷に立つ予定まで入れていた。不撓(ふとう)不屈とはこのこと。
祖父の姿に、自身の高校時代を思い出した。抗がん剤治療を受けながら、3年生最後の選手権に出るためにサッカー部の練習に参加した。がんが再発したことを周囲に隠し、公式戦にも出た。死に物狂いだった。
「いつも言うことですけど、病気を軸にしないという生き方。常に自分の軸で生きること、これが最も幸福なことです。僕は生きざまより、死にざまが大事だと思っている。どう死んでいくかという。おじいちゃんは自分の死にざまを描いて生きてきたと思う。後悔しないように生きるというのは、最後の最後まで自分を貫いている姿なんだと思う。それを間近で見られたのは幸せでした」
病気を軸にしない。体に障害があっても言い訳にはしない。かねてから、健常者と同じ土俵で戦って勝ちたいというマインドを持っていた。
「障害のある者の中で1位になってもワクワクしない。自分が心躍るようなことをし続けたいんです」
■高校の卒業式で語った夢を生きる
5年前のことを思い出す。2018年3月7日、18歳の晋太朗君は1人で高校の卒業式に臨んでいた。がんが転移し、すぐに手術を控えている中、校長室で卒業証書を受け取った。そこに同行させてもらった。
高校生活の思い出を聞いた後、未来について尋ねると、こう返ってきた。
「俺でしか叶えられない夢ってあると思います。周りの人の影響力よりも、(病気の)俺が与えていくことで広がる影響力の方が大きい。だからこそ自分が世界の人たちが(自分を)見てくれるような場に立って、世界中の大人や子供に俺の口から直接、発信していって。少しでもあきらめている子とか、いったん夢を考え直しちゃう子たちにも、やっぱり自分でしか叶えられない夢っていうのがあるから。『そういうのがあるんだよ』っていうのを、僕が大人になって、もっと発信していきたいと思います」
闘病という暗闇の中、気丈に自らの心に火をともした。今となってみれば、未来を予言したかのような言葉に驚かされる。
夢の形は変わったかもしれない。それでもフットゴルファーとしてW杯出場という新たな目標は、そこからつながっているものだった。
少年時代から憧れていた「日本代表」。その肩書を背負い、世界の舞台に立つ。
「自分の今まで積み上げてきたものを、その環境でどれだけ出せるのか、そしてその瞬間、うまく行くこと、行かないことを楽しむことができるのか、常に自問自答しながら闘いたいです。それが結果的にいろんな人の感動だったり、希望だったり、みたいなそういうところにつながっていってくれたら、うれしいですね」
「柴田晋太朗」と掛けて「希望」と解く。その心は-。
多くの遺志を背負い、「自分軸」で生き続ける男は、今その瞬間を全力で楽しみ抜く。【佐藤隆志】