まだ駆け出しの記者だった頃。2004年、秋も深まりつつあった。セレッソ大阪の練習場が、現在の大阪の人工島の舞洲ではなく、西成区南津守にあった時のエピソードである。前日にJ1リーグ戦があり、その日は午前中に軽めの練習だけだった。選手は1人、また1人とクラブハウスから帰って行く。何人かいた番記者も、私を含め2人だけになっていた。

出前の弁当をプレハブの記者室で食べていると、ボールを蹴る音が響いてきた。のぞくと、誰もいないグラウンドで1人、黙々とシュート練習をする選手がいた。

若かりし頃のFW大久保嘉人だった。

片隅で、その姿を見ていた。100本、200本とシュートの本数を数えていた。300本を過ぎた頃に、数えるのをやめた。1時間以上が過ぎ、ようやく居残り練習は終わった。

ベンチに座ってスパイクを脱ぐ大久保に、話を聞いた。汗だくで、吐く息が荒かったことまで記憶に残っている。

「みんなの前で(居残り練習を)やるもんでもないしね。やらんと、ダメでしょ。もっと点を取りたいし、チームは勝っていないんやから」

その年、C大阪はJ2降格の危機に立たされていた。当時、チームの看板で日本代表でも活躍したMF森島寛晃(現C大阪社長)とFW西沢明訓も、まだ若手だった大久保の姿をよく見ていた。現役時代、番記者には決して愛想がいいとは言えなかった西沢に、大久保のことを聞いた日がある。愛車の白いポルシェの窓を開けて「何も話すことなんかねぇ~よ」と言いながらも「大久保選手のことを聞かせてよ」と頼むと、エンジンを止めた。

「嘉人のことは、みんな見てるよ。アイツがあんだけやってんだから。試合に出ていない若いヤツらはもっとやらないといけないし、俺らも、そりゃあ、刺激を受けるよね」

もう16年も前の話である。09年に現役を引退した西沢も、愛着あるクラブの社長になった森島も、大久保の存在価値が決して色あせていないと分かっている。神戸に移ってからも、3年連続で得点王になった川崎Fでも。彼の背中を見ながら練習に励む若手がいることを知っているから。常に荒くれ者のイメージがつきまとい、敵に回すとこんなにやっかいな選手はいない。だが等身大の姿は、年下の選手には目線を下げ、あえていじられキャラになってチームをまとめる。そして、勝利への執念、得点へのこだわりを伝える。味方にしたらこんなに優しく、頼りになる男はいない。

今季、38歳になった大久保がC大阪に復帰した舞台裏には、森島(モリシ)と西沢(アキ)の思惑がある。代理人として今回の移籍を実現させたのが、西沢だった。現役の終盤、西沢は07年に故郷の清水に移って2シーズンを過ごし、09年に当時J2で苦しんでいたC大阪に戻った。精神的支柱となり、J1に復帰させてからユニホームを脱いだ。モリシとアキは、同じような仕事を大久保に求めている。昨季、J2の東京Vで無得点に終わった“かつての点取り屋”を獲得したことに、懐疑的な見方をする人もいるだろう。だが、背中でチームを引っ張ろうとする姿勢は、C大阪にとって間違いのない「補強」なのである。

今回、移籍が決まった際、チームから背番号の提示を受けた。森島が背負ったC大阪のエース番号である8番が柿谷の移籍により空いていた。さらに川崎F時代に得点王になった時の13番も提示されたという。

ただ、大久保が求めたのは20番だった。

その日、西沢の携帯電話を鳴らした。

「現役の時、アキさん(西沢)がセレッソでつけていた背番号を、もらおうと思っているんです」

そう告げると、西沢は少し戸惑った様子を見せた。

「お前は、お前の背番号でやれよ。俺のことを気にすることはないから」

それでも、大久保は譲らなかった。周囲にはこう漏らしていたという。

「いつの日か、セレッソに戻ることができたら、20番をつけてやるイメージを、ずっと持っていたから」

C大阪には、古くから脈々と受け継がれる浪花節がある。ただ、浪花節だけで勝てる世界ではないことも、クラブの人たちは知っている。だからこそ-。

01年にプロとしての第1歩を刻んだC大阪で復活を。モリシとアキに恩返しのタイトルを。残り少なくなりつつある現役生活で再び輝く姿を、見せて欲しい。【益子浩一】

西沢明訓(右)はゲーム後、出場停止のFW大久保嘉人から「やりすぎですよ」と冷やかされていた(2003年11月24日撮影)
西沢明訓(右)はゲーム後、出場停止のFW大久保嘉人から「やりすぎですよ」と冷やかされていた(2003年11月24日撮影)