5月31日でサッカー2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会の開幕20周年となった。日刊スポーツでは「2002年W杯 20年後の証言」と題して、当時のキーマンたちが語る秘話などを連載する。2回目は、当時、日本サッカー協会の技術委員長だった大仁邦弥氏(77=現最高顧問)。

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1998年(平10)9月に日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエ氏は、あらゆる面で規格外だった。

同10月、福島県のJヴィレッジで行われた最初の日本代表候補合宿に、前代未聞の72人もの選手を招集した。練習は厳しさと規律を求めるスパルタ式で、熱くなって自ら選手に体当たりするシーンもあった。直前に練習時間を変更するなど、選手に常に準備できるようピッチ外でも自己管理を求めた。大仁氏はこう振り返る。

大仁 彼が合宿で最初に選手に言ったのが「なぜもっと気持ちを外に出さないんだ。サッカーは戦いだ。練習から戦う顔を見せろ。声も出せ。まずそこから始めないと強くならない」。日本の選手はいい選手だが、気持ちが全然前に出ていないと。確かにそれはその通りだと思った。

各世代の日本代表強化を担う技術委員会は、トルシエ監督にA代表に加えて、ユース(20歳以下)、00年シドニーオリンピック(五輪)代表の監督も兼務させた。日本では初めてのことだった。

大仁 02年W杯は自国開催で予選がない。若い選手を育てる時間があるのでユース、五輪と全部任せようということになった。彼もやりたいと。結果的に4年間という時間をかけて、彼の「フラット3」を基本にしたチームづくりが各世代で共有できたので、若い選手もA代表に引き上げやすくなった。そこは非常にうまくいった。また、彼は実績のある選手も、若い選手も先入観なく同じ目線で見ていた。名前に惑わされない。それもよかった。

一方でトルシエ監督の決して妥協しない性格と、感情が先立つ激情家の一面が、常に選手や協会、Jリーグとのあつれきを生み、衝突を繰り返した。振り返れば、彼はW杯に導いたナイジェリアをはじめ、代表やクラブチームを率いていたアフリカの国々では、結果は残していたものの、常にメディアや協会ともめ事を起こしていた。

大仁 98年W杯フランス大会後に、フランス協会のベルベック副会長から「(W杯に出場した)南アフリカの監督をやっていた若い、やる気のあるやつがいる」とトルシエ監督を薦められて、(契約の話をするため)フランスで初めて彼に会った時は真摯(しんし)で謙虚な印象だった。「W杯で日本の試合を見た。高く評価している。(監督)をぜひやりたい」と意欲的で、やる気満々でね。契約前に来日した時に都内のホテルに泊まっていて、ちょうど地震があったので「どうだった」と聞いたら「怖くて机の下にもぐり込んだ」と。かわいいところがあるやつだなと思った。アフリカで協会とトラブルになっていたという話は聞いていなかった。

日本が準優勝した99年ワールドユース選手権(ナイジェリア)前には、予防接種をめぐって大仁氏と大げんかになった。渡航には6種類の予防接種を義務づけられていたが、アフリカでの指導経験の長いトルシエ監督は「そんなに必要ないと」と訴え、追加選手の招集を強く要求した。

大仁 彼は自分の思い通りにいかないとガンガン言ってくる。出発する空港で日本協会の医事委員長にまで文句をつけた。クラブから選手を預かっているので、私も黙っているわけにはいかない。だめなものはだめだと。最後は無視ですよ。彼とはよくケンカしましたよ。何でも文句をつけてくるから。ただ彼は要求が通らないと腹を立てて帰るけど、翌日はもう何事もなかったようにさっぱりしていた。

無理難題、大人げないとも思える監督の要求は02年W杯まで続いた。その都度、技術委員会は対応と調整に追われた。

大仁 Jリーグの日程を変えろとか、代表の活動日数を増やせとかね。試合で結果が出ないと、Jリーグのレベルが低いから強くならないとか、うまくいかないと人のせいにする。当然Jリーグ側は「ふざけるな」となる。その面では苦労しましたよ。

一方でトルシエ監督のピッチの外での意外な行動も印象に残っているという。

大仁 ナイジェリアのワールドユース選手権で、試合の合間に代表選手たちを孤児院に慰問に連れていった。若い選手たちにアフリカの現実を見せるのが大事、ということだったと思います。どれだけ自分たちが恵まれた環境にいるか。だからもっと懸命にサッカーを頑張れということを伝えたかったのでしょう。わりとそんなことはやっていましたね。

A代表の不振と周囲との摩擦も重なり、00年春には解任騒動もあったが、日本協会の岡野俊一郎会長の決断で同6月に続投が決まった。その後は00年アジア杯優勝、01年コンフェデ杯準優勝、そして、02年W杯決勝トーナメント進出と、トルシエ監督は結果を残し続け、W杯では見事に課せられたノルマを達成した。日本列島は歓喜にわいた。20年たった今、大仁氏はあの嵐のような4年間をこう振り返る。

大仁 いろいろと問題もあったが、彼は日本代表に、徹底して戦う強い気持ちを植え付けた。若い選手を引き上げたことでチームも変わった。どんどん海外に行けと選手たちの背中を押して、海外に出ていく選手が増えて日本全体のレベルが上がったと感じた。結果的に、彼の指導法はあの時代の日本には合っていたのだと思う。あのタイミングに。今は無理でしょうけどね。【首藤正徳】

 

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