昨年7月の陸上世界選手権(米オレゴン州)男子100メートルで日本人初の決勝進出を果たしたサニブラウン・ハキーム(23=タンブルウィードTC)が、ニッカンスポーツ・コムで次世代のスプリンターへ提言する5回連載の第4回は、日本陸上競技連盟(日本陸連)の「ダイヤモンドアスリート」制度について語った。【取材・構成=木下淳】

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サニブラウンの記事が、日刊スポーツに初めて掲載されたのは15年6月28日だった。世界選手権の代表選考会を兼ねた日本選手権(新潟)。その本文中に「20年東京オリンピック(五輪)に向けた日本陸連の育成プロジェクト『ダイヤモンドアスリート』の一員」とある。

「選ばれたのは確か高校1年(前年14年)の冬の測定合宿ですね」

日本陸連によると、「ダイヤモンド-」は、五輪や国際大会での活躍が大いに期待できる次世代の競技者を強化育成する制度。その認定者は、東京五輪を契機に中・長期的にエリートを育成するために選ばれた競技者で、15年に始まった。

サニブラウンは1期生だった。国際競技力の向上と国際人の養成が目的。同期には、自身と同じように拠点を海外(チェコ)に移して飛躍した女子やり投げ北口榛花(24=JAL)や、陸上男子走り幅跳びの盟友、橋岡優輝(23=富士通)らがいる。

「いろいろ、ここまで個人的な考えを述べさせていただきましたけど、この『ダイヤモンドアスリート』は理にかなった、素晴らしい制度だと思います。いろいろな国に連れていってもらい、全て自分たちで生活をマネジメントして経験してください、というシステム。これはどんどん増やしていってほしいですね。マジで、このままだと陸上は置いていかれますから。世界はどんどん前に進んでいますから」

自身は認定された期待に応え、初年度、冒頭の記事にあった日本選手権の100メートルと200メートルで2位。15年の世界選手権日本代表に選ばれると、200メートルに世界最年少の16歳で出場し、準決勝に進出した。同年の世界ユース選手権では100メートルと200メートルの2冠に輝いた。

この制度を、担当責任者として創設に導いたのが、現在の日本陸連・山崎一彦強化委員長だ。

「山崎先生をはじめ、ダイヤモンドアスリート制度を創設してくれた方々には本当に感謝しています。その方たちのおかげで自分は今の考え方になり、より『アメリカに行こう!』と思ったので。山崎先生が(2020東京五輪プロジェクトチームの)ディレクターだった時に選んでくださって。最初は、一緒にオーストラリアへ行ったんですよね。自分と、他に4人の選手で行かせていただいて、自炊して、自分たちで電車に乗って練習場とか施設見学に行って。トレーニング同様、生徒たちだけで生活してみなさい、という体験が記憶に残っていて、海外で全てを自分たちだけでやることの難しさを実感させられましたね」

東京・城西高時代。海外で生きていく素養の下地になった。

「先人が、例えば朝原(宣治)さんが単身でドイツに渡ったり。山崎先生も英国の大学にコーチ留学したり。そういう経験をした先輩たちが道をつくってくれたから、今の自分がある。自分の経験を次世代のスプリンターに提供していかないと、もったいない。そういうことをしていきたいですね」

他にも、安藤財団の「グローバルチャレンジプロジェクト」などのスポーツ支援があり、男子3000メートル障害の三浦龍司(順大)がダイヤモンドリーグに参戦でき、東京五輪では7位に入賞した。走り高跳びの戸辺直人(JAL)もエストニアを拠点に実力を磨き、東京五輪では日本勢として49年ぶりの決勝進出を遂げた。

既に成功例のある支援も活用しながら、底上げされれば本望だ。自身は9秒8台という日本人にとって未知の領域を目指し、海外転戦も。昨季は世界選手権7位入賞の他に、最高峰の「ダイヤモンドリーグ」も2レース走った。

「強くなる上に楽しみなんですよね。欧州を転戦して、いろいろな街を見て、走って勝負して。そういう挑戦がなかったら、つまらなくて自分は陸上をやめてますよ(笑い)。知らない街で新しいものを模索すれば触発されますし、どんどんやってみようという人が出てきてほしい。そのサポートをしていきたい。とにかく若いうちに経験してほしい」

山崎さんは社会人、朝原さんは大学、サニブラウンは高校の時に海外留学を経験した。今後、さらに若い年代に対し「何かに気付いてもらうチャンスを増やしていきたい」。最後は、女子の短距離も含めた陸上界全体の盛り上げ案について語った。(最終回に続く)

◆サニブラウン・ハキーム 1999年(平11)3月6日、福岡県生まれ。ガーナ人の父と日本人の母の間に生まれ、小学校3年で陸上を始める。15年世界選手権北京大会の200メートルに世界最年少の16歳で出て準決勝進出。東京・城西高を卒業後、オランダ修行をへて17年秋に米フロリダ大へ進学。19年5月に9秒99、同6月に9秒97を記録した。20年7月に休学し、現在の所属に。21年東京五輪は腰のヘルニア等で200メートル予選敗退。190センチ、83キロ。血液型O。