1990年2月8日、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで、3日後に迫った統一世界ヘビー級タイトルマッチの公式記者会見が行われた。会場は海外メディアも含む約300人の報道陣で埋めつくされた。ところが開始予定時間になっても主役のタイソンは姿を現さなかった。スーツ姿で正装した挑戦者のダグラスは仕方なく、愛息ラマー君(11)を呼んで時間をつぶした。
25分後にようやくTシャツ姿で表れたタイソンは不機嫌だった。遅刻に悪びれるでもなく、壇上に座るとまるでやる気のないそぶりで大あくびをして、ヘッドホンステレオの音楽に合わせて机をたたいた。来日以来、日本の報道陣に見せていた態度とはまるで違っていたので私は驚いた。その挑発的なポーズは、実は米国メディアに向けられたものだった。
日本人記者の代表質問終了後、米国人記者に質問が移るとタイソンは態度を一変させた。「スパーリングでダウンしたが、調子が悪いのか」の質問に「オレが倒れてやったのさ、試合がより面白くなるだろう」と、小ばかにしたような口ぶりで答えた。同じ米国の女性記者から精神科医を同行させた理由を問われると、英語では極めて俗悪な表現を口にして、品のない薄笑いを浮かべた。
前年7月、米ニュージャージー州アトランティックシティーでタイソンの防衛戦を取材した時のことを思い出した。タイソン陣営と信頼関係を築いていた帝拳ジムの本田明彦会長の計らいで、日本の報道陣だけ練習取材が許された。これに現場にいた約30人の米国人記者たちが激しく抗議。プロモーターのドン・キングとつかみ合いになる騒ぎを起こしていた。
当時、タイソンは日本では好感度の高いスーパーヒーローで、サントリー、任天堂、トヨタのCMに出演していた。しかし、米国では特に88年以降、暴行事件や交通事故などを度々起こしたことで“粗暴な世界王者”のレッテルを貼られ、悪評もあるドン・キング氏と手を組んだことが逆風に拍車をかけていた。CMも87年にペプシとコダックが打ち切ると、お呼びがかからなくなった。
88年3月にニュージャージー州にタイソンは14エーカー(約1万7000坪)の敷地と約500坪の豪邸を購入していた。しかし、昨年7月の取材でキングは「今回の防衛戦後にすぐに日本で家を探したい。タイソンは年2~3カ月は日本で生活したいと考えている。米国にはもううんざりしている」と語っていた。そんな母国での孤立した状況も、タイソンが遠い日本での防衛戦を快諾した理由だったのかもしれない。
7日にタイソンがひどいホームシックにかかっていることが判明した。しかし、母国に戻ったとして、心休まる場所などあるのだろうか。8日の公式会見で米国人記者とやりあう様子を見ていて、タイソンのある言葉を思い出した。「オレは誰も必要としない」。今、彼は間違いなく人生の頂点にいる。使いきれない札束に囲まれた生活。しかし、それと引き換えに、何か大切なよりどころを失っているように感じた。
翌9日、タイソンは軽めのジムワークで防衛戦に向けた練習を打ち上げた。すべてのメニューを終えた直後、彼はバスタオルを持って近づいてきたトレーナーのアーロン・スノーウェルを、両手を前に出して遠ざけた。その後、取り巻きたちから1人離れ、リングのエプロンに座って、心の状態を整えるように約20分間も目を閉じた。その時、タイソンが何を考えていたかは分からないが、その姿は彼の孤独を象徴しているように私には見えた。
この日、米国から2人の男が成田空港に到着した。世界ランク1位のイベンダー・ホリフィールド(米国)と、後に大統領となる米国の不動産王ドナルド・トランプ。タイソンの防衛戦を2日後に控えて、すでに次へ向けた大きな計画が進んでいた。【首藤正徳】